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スマッシュフロンティア  作者: あめたす


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第13話:針の穴で視る弾道

第13話:針の穴で視る弾道


 グチャ、と。

 泥と苔を巻き込みながら、死んだガットがボールの底を抉る。

 跳ねないのなら、地面ごと掬い上げて無理やり跳ねさせる。

 卓球のカット打ちの要領で、手首の関節を限界まで背屈させ、スナップの力だけで強引にボールの回転軸を上向きへと書き換えた。

 キィン、と耳の奥で、金属がねじ切れるような高音が鳴る。右手首に厳重に巻かれたテーピングの繊維が、皮膚を引き裂かんばかりに強烈に突っ張った。

 激痛。だが、それは脳に「生きている」ことを自覚させる甘美な劇薬だった。


「――らぁッ!」


 泥をまとった球が、ネットの白帯を掠めるような超低軌道で、メイリンの足元へと突き刺さる。

 バウンド後の速度変化を殺したはずの泥濘の上で、球は逆に、トップスピンスピンの呪縛によって手元へ急激に跳ね上がった。


「なっ……!?」


 メイリンの完璧な美貌が、初めて驚愕に歪む。

 彼女は辛うじてラケットのフレームで防いだが、ボールはそのままコート外の白い霧の彼方へと弾け飛んでいった。


『――新卓 、泥濘からのライジングを奪取! ポイント、15-0!』


「カケール! 今のすくい上げ、まるで秘伝のタレに漬け込んだ極上のアナゴを、職人が丁寧に煮崩れさせずに盛り付けたような手際だったヨ! ビューティフル!」


 ベンチからのリチャードの絶叫が、重い霧を引き裂く。

 だが、その手にはまだ、ベショベショになったおにぎりが握られていた。感動のあまり海苔の付いた指先で拍手をしたせいで、彼の手の平は現在、黒い斑点だらけの大惨事になっている。


「リチャード、飯の話はいいから手を洗え! あと海苔をコートに飛ばすな!」


「オーウ、これは海苔じゃないヨ、戦術的なカモフラージュサ……!」


 緊迫したデスゲームの最中だというのに、相変わらずこの叔父は緊張感という言葉を贅肉と一緒にどこかへ置き忘れてきたらしい。

 だが、そのズレたやり取りのおかげで、肺胞にまとわりついていた湿った恐怖が、わずかに霧散していく。


「ふん……面白い悪あがきね」


 ネットの向こうで、メイリンが冷ややかにラケットのガットを指先で弾いた。

 バチン、と硬質な音が響く。彼女のラケットは、この『ミスト・フォレスト』の水分を吸収しない、特殊な魔導繊維で編まれているようだった。環境そのものを味方につけた絶対的な優位。


「手首を直接こねて、球の死行を拒絶した。確かに見事な野生だわ。……だけど、そんな打ち方が、あと何球持つかしら?」


 彼女のハッキングは、残酷なまでに正確だった。

 二球目を構える俺の右手首は、すでに熱を帯び始めている。

 骨と腱が噛み合う中心部が、じわじわと酸に侵食されるように疼いていた。一度打つごとに、寿命のロウソクが目減りしていくような確かな摩耗。

 だが、その破滅への予感が、逆に俺の網膜の奥にドス黒い歓喜の火を灯す。

 痛むということは、まだ動くということだ。壊れる寸前の肉体をこれほど贅沢に消費して戦う全力が、心地よくないはずがなかった。


「何球持つか、試してみるかよ、蜘蛛女」


「ええ、喜んで。あなたのその細い手首が、大木のようにへし折れるまで、徹底的に前後に躍らせてあげるわ!」


 メイリンの瞳に、加虐的な光が宿る。

 バグッ、と重低音を響かせ、彼女の第二打が放たれた。

 今度はドロップショットではない。コートの最深部、俺のベースライン際へと突き刺さる、質量を持ったヘビー・ドライブ。

 水分を吸い尽くしたボールは、もはやテニスボールの軽やかさを失い、濡れた鉄球のような破壊力で襲いかかってくる。


(――ぐ、重ぇ……!)


 辛うじてバックハンドで合わせるが、死んだガットはボールの重さに負けて大きく撓み、コントロールを完全に奪われる。

 浅くなった返球を見逃すメイリンではない。彼女はすでに、蜘蛛が獲物の巣へ滑り出すような滑らかな動きで、ネット際へと詰めていた。

 ポス。

 再びのドロップショット。

 白く煙る霧の向こう、視界からボールの輪郭が完全に消え失せる。


(クソ、見えねえ……!)


 距離感が狂う。空間のゲシュタルト崩壊。

 どこにボールが落ちるのか、視覚が完全に機能を停止した。

 ――その瞬間、俺の全身の皮膚が、粟立つように逆立った。

 額から流れ落ち、睫毛を濡らす重い汗。その一滴が、肌を伝うわずかな空気の「揺らぎ」を敏感に感知する。

 霧が動いた。

 ボールが湿った空気を押し分け、微かなパルスを作って進んでくる振動が、前腕の毛穴ひとつひとつに直接流れ込んでくる。


(そこだ――ッ!)


 視覚を捨て、野生の触覚だけで弾道を割り出す。

 卓球の狭い台で培った、身体の正面でボールを捉え続ける『前陣速攻』のフットワーク。それを、テニスコートという巨大な檻のサイズへと強制的にスケールアップさせる。

 泥を爆発させるように踏み込み、前へのダッシュ。

 一瞬が、永遠のように引き延ばされる。

 ボールの表面の毛羽が、水分を含んで重くささくれ立っているのが、触れずとも分かった。

 ネット際、わずか数センチの世界。

 地を這う鉄球に対し、俺は再び手首の靭帯を引き絞り、泥ごとラケットを振り抜いた。


「そこよッ!」


 待っていたメイリンが、至近距離からボレーを叩き込んでくる。

 ネットを挟み、互いの息遣いが、飛び散る汗の匂いが同期するほどの超至近戦。

 パン、グチャ、パン、ベチャ!

 テニスではない。それはまるで、狭い部屋の中で互いに至近距離から散弾銃を撃ち合うような、残忍で濃密なラリーだった。

 一打ごとに、俺の右手首のピアノ線が、千切れる寸前の悲鳴を上げる。

 だが、俺の瞳は、狂気的なまでの集中によって、白い霧の中で金色に爛々と輝いていた。


「アハハハハハ! 弾まねえなら、全部ノーバウンドで引っ繰り返してやるよ!」


 極限状態の中で、俺のフットワークはさらに加速していく。

 霧深き監獄の主、メイリンの顔から、次第に余裕が消え失せていくのを、俺の皮膚は確かに感じ取っていた。

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