第14話:精霊の針、狂気の糸
第14話:精霊の針、狂気の糸
白く濁った大気が、二人の間で激しくかき混ぜられる。
ネットを挟んでわずか1メートル。テニスコートという広大な戦場において、およそあり得ない密度で、弾道が最短距離で行き交っていた。
パパン、と小気味よい音が連続する。
メイリンの放つ重厚なパワーボレーに対し、俺はラケットを大きく振る余裕すらない。卓球の『前陣速攻』――台にへばりつき、相手の打球の上がり端を最小限のコンパクトなスイングで捌き切る。その超感覚が、今この瞬間に完全にアジャストしていた。
視界は最悪だ。滴る汗が睫毛を濡らし、塩分が眼球を鋭く刺す。霧のせいで、メイリンの輪郭さえも水没したようにぼやけていた。
けれど、視えなくていい。
彼女のラケットが湿った空気を引き裂く風切り音、踏み込まれた苔の潰れる微かな感触、術中にはめようと鋭く脈打つ彼女の「呼吸の枷」が、霧を通じて皮膚に直接伝わってくる。
呼吸が同期している。彼女が酸素を欲して胸郭を広げる瞬間、次に打ってくるコースが、脳内へ色彩を持って流れ込んできた。
(バック、外へ逃げるスライス――!)
予知に近い直感に従い、俺は右手首の関節を鋭く内側に巻き込んだ。
卓球仕込みの裏面打法を応用した、変幻自在のサイドスピン。インパクトの直前まで面を隠し、ボールの右側面をミリ単位の精度で削り取る。
「そこっ……!」
メイリンが反応する。しかし、彼女のラケットが動いた瞬間には、ボールはすでに彼女の予測した位置から外側へと、ぐにゃりと歪むように逃げていた。
バシィン!
「きゃあ!?」
外側へ激しく変化しながら逃げるアングルショットが、メイリンの差し出したラケットの先端を弾いた。
ボールは霧の奥、観客席の木々の隙間へと消えていく。
『――新卓、連続ポイント! 30-0!』
「ヒューゥ! カケール、今のはまるで、ロンドン裏通りの鍵師が、真夜中に音もなく金庫を開けたときのような精密さだったヨ! その調子でマダムのハートも解錠しちゃいなヨ!」
「リチャード、例えが相変わらずマニアックなんだよ!」
ベンチで興奮のあまり、なぜか現地調達したらしい巨大なバナナをマイク代わりに握っている叔父を怒鳴りつける。
一息ついたその時、頭部に奇妙な違和感を覚えた。
なんだか、頭が異常に軽い。というか、周囲の霧が俺の頭に向かって吸い寄せられているような気がする。
「……あら? あなた、その頭……」
ネットの向こうで、メイリンが信じられないものを見るような目で俺を凝視していた。その瞳から、さっきまでのサディスティックな嗜虐光線が綺麗に消え失せている。
「あ? 俺の頭がどうしたって――」
自分の髪に触れて、愕然とした。
このミスト・フォレスト特有の、電磁波を帯びた湿気と、俺の激しいフットワークによる静電気が最悪の化学反応を起こしたらしい。
普段はへなへなと寝ている俺の黒髪が、一本残らず完全に垂直に逆立ち、まるで巨大な球体――要するに、完璧な『ハリネズミ』のようになっていた。
「おいリチャード! 鏡、鏡はあるか!?」
「オーゥ、カケール……。それは鏡を見ない方がいいネ。今のユーは、完全に怒り狂った新種のハリネズミみたいだヨ……」
「クソが! なんでこんな大事な試合の最中にギャグ補正が入るんだよ!」
ガサガサ、とコート脇の霧深い茂みが不自然に揺れた。
現れたのは、この森に住む原住民(小柄な亜人間たち)の集団だった。彼らは一様に、直立不動で逆立った俺の髪を見つめると、突然その場に平伏し、涙を流しながら祈りを捧げ始めた。
「おお……!『霧を統べる針の御神』が、ついに現れた……!」
「御神体だ! 御神体がラケットを持って戦っておられるぞ!」
コト、コト、とコートのすぐ脇に、彼らが恭しく何かを置き始める。
見れば、山盛りの高級どんぐりと、紫色に怪しく明滅する『森の特産・爆沸キノコ』だった。完全なる供物である。
「ノー! カケール、彼らはユーを森の精霊と勘違いしているヨ! しかしこのキノコ、すっごく美味しそうな匂いがするネ……ちょっと醤油をつけて焼いたら最高そうデ――」
「食うな! どう見ても毒キノコだろ! あと原住民の皆さん、俺はただの高校生です! 拝むのをやめてください、試合に集中できない!」
ピシッ、と冷たい緊張感がコートを走る。
メイリンが深く息を吸い込み、ラケットを構え直した。その顔は、ギャグ空間に流されることなく、再び冷徹な『ネット際の蜘蛛』へと戻っている。
「……くだらないお祭り騒ぎはそこまでよ、精霊さん。」
彼女の言葉に、心臓が跳ねる。
「あなたのその『魔球』、打つたびに関節の骨同士が軋み合っているでしょう? そんな歪な打ち方、人間の肉体が耐えられるはずがない。次の一球で、その細い手首を完全に終わらせてあげる」
彼女の指摘は、寸分の狂いもない正論だった。
右手首の奥で、ジリジリと肉が焦げるような熱痛が広がっていく。次を打てば、本当に何かが千切れるかもしれないという恐怖。避けられない肉体の崩壊予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
だが。
だからこそ、今この一瞬に、全ての情熱を叩き込む理由になる。
ケンは今、この世界の遥か高みで、傷一つ負わずに勝ち続けている。あいつの完璧な美しさに追いつくためには、泥を啜り、骨を軋ませてでも、この目の前の天敵をねじ伏せなきゃならない。
「終わらせる、か……」
俺は笑みを消し、ラケットを握り直した。
逆立った髪の隙間から、一点を見つめる瞳が、狂気的な光を帯びて爛々と輝きだす。
「いいぜ。俺の手首が折れるのが先か、お前の蜘蛛の巣がズタズタに引き裂かれるのが先か――チキンレースを始めようや、女王様」
皮膚を叩く霧雨が、一瞬、静止したように感じられた。
メイリンの身体が沈み込み、最凶のサーブが放たれる。その弾道を視るために、俺の全神経が、再びミリ単位の針の穴へと集中していった。
――凄まじい風切り音と共に、弾丸のような高速フラットサーブが俺のバックハンド側へと突き刺さる。
速い。だが、軌道は読めている。俺は痛む右手首を固定し、強引にラケットを合わせにいった。
しかし、その瞬間。
ガツン、と尋常ではない衝撃が手首を襲う。
「なっ……!?」
ただのフラットじゃない。凄まじいヘビーなアンダースピンが隠されていた。ボールはラケット面に当たった瞬間、不自然に下へと滑り、フレームをかすめて弱々しくロブのように跳ね上がってしまった。
完全に、打たされる形になった。
「終わりよ、新卓!!」
メイリンの口元が、勝利を確信した歪な笑みに吊り上がる。
彼女はすでにネット際へと猛烈なダッシュを見せ、最高打点でスマッシュを叩き込む体勢に入っていた。完璧なハッキング。俺の苦肉の返球は、すべて彼女の紡いだ糸の上を進んでいた。
上空から、死神の鎌のようなラケットが振り下ろされる。
一撃でコートを打ち砕かんとする、容赦のないスマッシュ。
万事休す――そう思った瞬間、奇跡が起きた。
メイリンが振り下ろしたラケットが、最高打点に達した瞬間。俺の頭部――逆立ち、超強力な静電気を帯びた『ハリネズミ状態の髪』が、周囲の湿気と同調し、局所的な「上昇気流」を作り出していたのだ。
さらに、コート脇に捧げられた『爆沸キノコ』から立ち上る熱気が、その気流を爆発的に加速させる。
フワリ、と。
メイリンの目の前で、ボールが気流に乗り、ほんの数センチメートルだけ不自然に「浮き上がった」。
「え――!?」
完璧だったはずの彼女のスイング軌道から、ボールがズレる。
強烈なスマッシュはボールの頭を叩く形になり、鋭い快音ではなく、鈍いフレームショットとなって、ネットのこちら側へと力なくポトリと落ちてきた。
チャンスボール。
だが、俺の右手首はもう、まともにラケットを振れる状態じゃない。指先の感覚すら消失しかけている。
(クソ、動け……動けよ、俺の右腕……!)
その時、脳裏に言葉が過った。
『力でねじ伏せるな。素材の重心を見極め、最小の傾きで最大の変化を生み出せ』
そうだ。強く振る必要なんてない。
俺はラケットを右手に握ったまま、左手をグリップへと添えた。卓球にはない、テニスだからこそできる両手打ち――ではない。
俺は、右手首を「一切動かさない支点」として固定し、左手の力だけでラケットの角度をミリ単位で制御する、超変則的な『両手動調・カットブロック』の構えを取った。
落ちてくるボールの下へ、滑り込ませる。
打撃ではない。剃刀の刃で、真珠の表面をそっと撫で切るような、極限の繊細さ。
キィィン、と金属的な高音が響く。
ラケット面に乗ったボールに、俺の左腕の全スナップをかけた「超絶逆回転」が刻み込まれる。
放たれた打球は、ネットをかろうじて越えた瞬間、メイリンの目の前で垂直に『自由落下』した。
「そんな……っ!」
メイリンが必死に腕を伸ばす。
しかし、地面に弾んだボールは、前へ進む推進力を完全に失っていた。それどころか、凄まじい逆回転によって、ネットの向こう側――つまり、俺のコート側へと「逆走」を始めたのだ。
卓球における究極の魔球。打球がバウンドして相手コートから自分側のコートへと戻ってくる、絶対捕球不可能の神技。
コロコロ……と、ボールはネットに静かに触れて、止まった。
静寂が、ミスト・フォレストを支配する。
原住民たちが、呆然と息を呑んだ。
『ゲ、ゲーム……アンドマッチ、新卓! 勝者、新卓カケール!!』
リチャードのバナナマイクを通した絶叫が、霧を切り裂いて響き渡る。
その瞬間、ウオオオオ!と原住民たちの地鳴り 大歓声が巻き起こった。「針の神!」という謎のコールがこだまする。
「……負けた? この私が、こんな、わけのわからない男に……?」
ネットの向こうで、メイリンが膝から崩れ落ちていた。
そのプライドに満ちていた瞳は完全にハイライトを失い、自分のラケットを見つめたまま震えている。蜘蛛の巣は、跡形もなく引き裂かれていた。
「はぁ……はぁ……、あー、死ぬかと思った……」
俺はラケットを地面に落とし、大の字にコートへ寝転がった。
右手首はパンパンに腫れ上がり、激痛を訴えている。髪の毛は相変わらずウニのように逆立ったままだが、空を見上げると、いつの間にか立ち込めていた深い霧が、嘘のようにサラサラと晴れ始めていた。
痛む腕を押さえながら、俺は不敵に笑う。
「見たかよ、ケン。俺はまだ、止まる気はねえぞ」
泥臭く、不格好で、ギャグまみれの勝利。だけど、この一歩は確実に、あの完璧なる天才の背中へと繋がっているはずだった。




