第8話:鋼の尖塔と、遠き背中
第8話:鋼の尖塔と、遠き背中
グリーンフィールドの穏やかな芝の香りは、今や遠い記憶の彼方だ。
駆たちが次に向かったのは、天を突く高層ビルが鏡のように陽光を反射する街、スカイハイ・シティ。見上げる首筋が痛むほどの垂直の世界。ここでは酸素さえも薄く、呼吸のたびに肺の粘膜が乾燥して張り付くような錯覚に陥る。
「……カケール、見てごらん。あのアリーナの頂上を」
リチャードが、汗を拭いながら巨大な塔を指差した。その先、雲を切り裂くようにしてそびえ立つのが、エリア・マスターであるアイザックが君臨する「スカイハイ・アリーナ」だ。
駆は、まだ鈍い疼きを残す右手首を無意識にさすった。柴田との死闘で得た「ライジング」の感覚。だが、この街の空気はそれを許さない。気圧の関係か、あるいは上昇気流のせいか。ボールは通常よりも軽く、鋭く、そして残酷なまでに速く飛ぶ。
「……ケンも、ここを通ったんだな」
駆の呟きは、ビル風にかき消された。
アリーナのロビーに設置されたホログラム・ボード。そこには、歴代の突破者の記録が刻まれている。
一番上。光り輝く場所に、見慣れた名前があった。
『K・ハワード:オールストレート勝ち。所要時間、歴代最短』
「……フン、相変わらず鼻につく効率の良さだぜ」
駆は鼻で笑った。だが、その瞳の奥には、鋭い「狂気」の光が静かに、しかし確実に灯っていた。自分たちが泥を啜ってようやく手に入れた一勝を、あいつは呼吸をするかのように軽々と、それも「無傷」で成し遂げたのだ。
「カケール、あまり無理はしないでネ。君の手首は、まだ手入れが必要な状態だ」
「わかってるよ。……けど、アイツの背中が霞んで見えなくなるのは、もっと癪だ」
駆はリチャードの制止を振り切り、エレベーターへと乗り込んだ。
その時。
「——おぉぅ……! カケール、ちょっと待って! このエレベーター、足元が透明だよ! ママ、助けて……!」
先ほどまでのシリアスな空気は、リチャードの情けない悲鳴によって粉々に粉砕された。
体重100キロを優に超えるリチャードが、ガラス張りの床に四つ這いになり、脂汗を流しながら駆のジャージの裾に縋り付いている。
「おい、引っ張んなリチャード! 破れるだろ、これ一着しかないんだぞ!」
「無理だ! 私は英国紳士だが、高所だけは別だ! ああ、足元に雲が……! 私は今、天国への階段を登っているのかい!?」
「ただのエレベーターだよ! ほら、外を見るな! 寿司のことでも考えてろ!」
「お、お寿司……。大トロ、ウニ、コハダ……。……ダメだ、今はガリの薄さしか想像できないよ……!」
情けない声を上げ続ける叔父を引きずるようにして、駆は最上階へと降り立った。
自動ドアが開いた瞬間、世界は一変した。
屋上アリーナ。遮るもののない天空。
そこに、一本の巨大な「杭」が立っていた。
身長2メートルを越す巨躯。アイザック。
彼は眼下の雲海を眺めたまま、振り返りもしなかった。
「……新たな挑戦者か。あるいは、ただの迷い人か」
アイザックの声は、高層ビルのコンクリートのように冷たく、感情を廃していた。彼の手には、特注のロングラケット。彼にとってテニスは情熱の対象ではなく、物理的な優位性を証明するための、退屈な「作業」に過ぎない。
「迷い人じゃねぇ。あんたをその高い場所から引きずり下ろしに来た、野良犬だよ」
駆はラケットを構えた。
アイザックがゆっくりと振り返る。その視線は、駆よりも遥か高く、空虚な虚空を射抜いていた。
「……ケン・ハワードという少年は、私と一度も目を合わせなかった。彼にとって、私は乗り越えるべき壁ですらなかったからだ」
アイザックがボールを高く放り上げる。
その動作は、洗練された重機のクレーンのように精密で、無駄がなかった。
「君も同じだろう。この高さから見下ろされる絶望に、耐えられるはずがない」
衝撃音が響いた。
目で見える速度ではない。それは文字通り、空から降り注ぐ「落雷」だった。
駆のすぐ脇を、黄色い光が通り過ぎる。
バウンドしたボールがアリーナの防風ネットを突き破らんばかりの勢いで跳ね上がり、消えていった。
「…………」
駆の頬を、一筋の汗が伝う。
あまりの風圧に、まつ毛が微かに震えた。
見上げる首筋が痛む。
だが、駆の唇は吊り上がっていた。
「最高じゃねぇか……。予測できないイレギュラーこそが、俺のホームグラウンドだ」
肺を焼く薄い空気。
圧倒的な「高さ」という暴力。
駆は、指先に殺気を研ぎ澄ませた。




