第7話:泥濘の果ての戴冠
第7話:泥濘の果ての戴冠
芝の香りが、鉄と汗の匂いに塗り潰されていく。
第5セット。異世界に放り出されて最初の試練は、肉体の限界をとうに超え、精神の髄を削り出す泥仕合へと化していた。
駆の右手首は、すでに感覚を失いかけていた。強引なライジングで柴田のスライスを強奪し続けた代償は、熱を持った鈍痛となって腕を駆け上がる。心臓が鼓動するたびに、指先までがドクドクと脈打ち、ラケットのグリップがひどく遠い存在に感じられた。
(……まだだ。まだ、指は動く)
対峙する柴田の顔からは、先ほどまでの余裕が消えていた。老雄の額を、一本の太い汗が伝い落ちる。彼は無言でボールを地面に突いた。タン、タン、という乾燥した音が、静まり返ったグリーンフィールド・アリーナに響く。
「……駆君。君は、自分の指が千切れるまで打つつもりかい」
柴田の声は、かつてないほど低く、重い。
「千切れたら、左手で打つだけだ」
駆は笑った。汗で顔をぐしゃぐしゃにし、剥き出しの膝から血を流しながら、子供が玩具を欲しがるような無垢な狂気で笑ったのだ。
その瞬間、柴田は悟った。この少年は、勝つためにテニスをしているのではない。自分の命を、この黄色い球に込めて「使い切る」ために立っているのだと。
柴田が放った最後の一打。それは、今日一番の深さと重さを持った、まさに「地を這う」スライスだった。
ボールはネットの白帯をかすめ、駆のバックサイドの隅、白線ギリギリで沈む。
「オーゥ、カケール! 追いつけない、あそこは——!」
リチャードの絶叫を、駆の意識はシャットアウトした。
視界が黄金色に染まる。肺が酸素を求めてひくつき、全身の毛穴が逆立つ。
駆は、卓球の「前陣速攻」の踏み込みを、さらに深く、さらに低く、コートへ叩きつけた。
グシャッ、と芝が死ぬ音がした。
駆は滑り込みながら、ラケットを砂に突き立てるようにして振り抜く。手首の腱が「パチン」と、目に見えない糸が弾けるような音を立てた気がした。
一瞬が、永遠に引き延ばされる。
ラケットのガット一本一本が、ボールのフェルトを噛み締める感触。
指先から伝わる、石細工を削るような緻密な摩擦。
駆は、その衝撃のすべてを、愛おしむように掌で受け止めた。
「行け……ッ!」
放たれた打球は、サイドスピンを極限まで含んだ「魔球」。
ネットを越えてから急激に左へ曲がり、柴田の目前で不自然に沈んだ。バウンドした瞬間、物理法則を嘲笑うように手元へ「跳ね返る」生きた回転。
老雄のラケットは、空を斬った。
「…………」
沈黙。
やがて、審判の電子音がアリーナに終わりを告げた。
ゲームセット、ウォンバイ新卓。
「……負けたよ。完敗だ」
柴田は、折れそうなほど細くなった足で歩み寄り、ネット越しに手を差し出した。
「君のテニスには、理論も品位もなかった。だが……そこには、私が見失っていた『命の熱』があった」
「……へへ。ジジイのスライス、もう二度と御免だぜ……」
駆は差し出された手を握り返そうとしたが、指先に力が入らず、そのまま老人の腕に縋り付くようにして崩れ落ちた。
「おっと。……よくやった。君は今日、重力に打ち勝ったんだ」
柴田の枯れ木のような手が、駆の泥だらけの背中を優しく叩く。
「カケール! おめでとう! 凄かった、最後のはまさに『アンビリーバブル』だよ!」
リチャードが、寿司の空き箱を放り投げて駆け寄ってくる。歓喜のあまり、その大きな腹を揺らして駆を抱きしめようとした——その時。
「待て、リチャード! 来るな! 暑苦しい……ぶふぇっ!」
リチャードの全体重を乗せたタックルに、満身創痍の駆はなす術もなく押し潰された。
「グハッ……! 死ぬ、勝ったのに圧死する……!」
「オーゥ、ごめんよカケール! あまりに嬉しくて! これでグリーンフィールドの称号は君のものだ!」
「……わかった、わかったから……まず、その脂ぎった顔を離せ……」
泥と汗と血にまみれ、最後には叔父の贅肉に埋もれる。
およそ英雄には程遠い姿だったが、駆の瞳には、かつてないほど清々しい「狂気」の残火が宿っていた。
始まりの地、グリーンフィールド。
駆はこの日、最初の壁を突破し、テニスという名の深淵へと片足を踏み入れた。
遥か高み、スカイハイ・シティの頂で待つ「正解」のライバル、ケン・ハワードへの道は、まだ始まったばかりだ。




