第6話:ライジングの胎動
第6話:ライジングの胎動
呼吸が、肺を焼く熱い鉄の味を帯びる。
グリーンフィールドの陽光は、もはや祝福ではなく、肌をじりじりと灼く責め苦のように感じられた。駆の額から滴る汗は、まつ毛の先で黄金色の雫となり、視界を水族館のガラス越しのような歪んだ世界へと変えていく。
(……動け。止まったら、このジジイのペースに飲み込まれる)
目の前の老雄、柴田は微動だにしない。
放たれるのは、すべて「死んだ」球だ。バウンド後のボールは、芝の葉を撫でるような低い音を立て、駆のくるぶし付近で粘りつくように滑る。テニスのセオリーである「膝を曲げて打点を高く保つ」ことなど、この超低軌道スライスの前では無意味な空論だった。
「どうしたね、駆君。君のテニスはもっと騒がしかったはずだが」
柴田の言葉が、湿度を帯びて耳に纏わりつく。
その間に再び放たれた打球。駆は足首を軸に、身体を捩じるようにして滑り込んだ。
バウンドする直前。あるいは、バウンドした刹那。
(ここだ……!)
駆は右手の指先に全神経を集中させた。
卓球のラケットよりも重く大きなラケットを、ミリ単位の感覚で操る。
彼は球の勢いに抗うのをやめた。重いアンダースピンに対し、力で対抗することは難しい。ならば、その回転をそのまま、自分の意思に書き換えてやる。
駆の瞳に、一点に収束する「狂気」の光が宿った。
普段のヘラヘラした表情は消え失せ、そこにあるのは冷徹な職人の殺気だ。
ガッ、と土を噛む音がした。
駆は通常のテニスのスイングを捨てた。ラケット面を極限まで寝かせ、バウンドの直後にボールの下へ潜り込ませる。膝が地面を擦り、ジャージの繊維が悲鳴を上げながら破れる。剥き出しになった皮膚がコートに焼かれ、官能的ともいえる熱い痛みが脳を覚醒させた。
「……ライジング……?」
リチャードが、握りしめた拳を震わせながら呟いた。
駆の打球は、ネットを越えた瞬間に「生きた」ものへと変貌した。
卓球をテニスサイズに拡張した、超高速のライジングショット。
地を這っていたはずの球が、駆のラケットに触れた瞬間、強烈なトップスピンを帯びて空へとのぼり詰め、そして柴田の足元へ垂直に落下した。
「ほう……。死んだ球に、無理やり心臓を埋め込んだか」
柴田の目が、初めてわずかに見開かれる。
打球は老人の予想を裏切り、バウンド後に手元へ跳ね上がるような「生きた」変化を見せた。卓球仕込みの手首で角度をつけたスピン。
「……お返しだぜ、ジジイ」
駆の呼吸は、網膜の奥で爆発する熱い疼きと同期していた。
一瞬が、永遠のように長く感じられる。ボールの毛羽立ちが空気の層を掻き乱す音、柴田の睫毛がわずかに震える様、それらすべてがスローモーションのように脳に刻まれる。
肉体の軋みは、もはや苦痛ではない。
それは、自分が今この瞬間に全力を出し切っているという「証明」の音だ。
「オーゥ! カケール! 膝は大丈夫か!? 今のショット、カッコよかったけどジャージ、もうボロボロだよ!」
リチャードの呑気な声が、張り詰めたアリーナの空気をわずかに緩ませる。
「うるせぇ……! 今いいところなんだよ、リチャード!」
「いいや、本当だよ。君、お尻のところが破れて、さっきから下着の柄がチラチラ見えて……あれ、もしかして……お寿司の柄かい?」
「……っ!? 違う、あれは……母さんが買ってきたやつで……!」
一気に顔を赤くして狼狽える駆。
柴田は、その様子を眺めてフッと口角を上げた。
「……クク。緊張と緩和、情熱と滑稽さ。リチャード君、君は確かに面白い逸材を連れてきた。だが、私のスライスはここからが本番だ」
老人は再び、静寂を纏った。
その瞳には、未熟な才能を愛でる優しさと、それを無慈悲に刈り取らんとする番人の誇りが同居している。
駆は、赤くなった顔を乱暴に拭い、再びラケットを構えた。
その不器用な情熱を一分たりとも疑わなかった。
地を這う老雄と、泥を啜る野良犬。
グリーンフィールドの静寂を切り裂く第二幕のブザーが、二人の肺腑を震わせた。




