表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スマッシュフロンティア  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/7

第5話:地を這う老雄

第5話:地を這う老雄


 グリーンフィールド・アリーナ。そこは「始まりの地」に相応しく、抜けるような青空と、呼吸を深めるたびに肺腑を洗うような芝の香りに満ちていた。

 だが、コートの中央に立つ一人の老人を目にした瞬間、駆の肌は粟立った。

 柴田。

 白髪を短く整え、使い古されたラケットを杖のように突いて立つその姿は、スポーツマンというよりは、枯山水の庭を眺める隠居人のようだった。しかし、その足元だけが、周囲の陽光を吸い込んだようにくらい。


「……リチャード君じゃないか。こんなところで再会するとは、神様も悪戯が過ぎる」


 老人が細い目を開いた。その声は穏やかで、まるで旧友を茶に誘うかのような響きがあった。


「オーゥ……柴田さん!? まさか貴方も、この『不思議な世界』に招かれていたとは」


 リチャードが、驚きのあまり抱えていた寿司の空桶を落としそうになる。その顔は、コーチとしての仮面が剥がれ、かつての「一人の挑戦者」の表情に戻っていた。


「二十年前、ロンドンの片隅で君と打ったスライスが、昨日のことのように思い出せるよ。君のサーブ・アンド・ボレーは美しかった。だが、ここでのテニスは少しばかり『重力』の意味が違ってね」


 柴田は視線を、リチャードの隣で殺気を隠そうともしない駆へと移した。


「それが、君の新しい希望かい? ……随分と、飢えた目をしている」


「挨拶は終わったかよ、ジジイ。アンタがエリア・マスターなんだろ」


 駆は一歩前へ出た。手首のサポーターを締め直す指先が、微かに震えている。武者震いか、あるいは本能的な警告か。柴田の全身からは、一滴の汗も、一片の無駄な熱量も感じられない。ただ、そこにあるのは「静寂」という名の暴力だった。


「若者は急ぎたがる。さっきの若者もそうだった。……だが、私のテニスは退屈だよ。泥を啜り、膝を折り、地べたを這いずり回る。君のような派手さを愛する者には、いささか酷な時間になるかもしれない。長話もなんだ…そろそろ始めようか」


 審判の宣告と共に、試合が始まった。

 柴田のサーブ。それは、プロの試合で見られるような爆発的な衝撃音を伴わない。シュル、という衣擦れのような音と共に放たれた球は、ネットを越えてから急激に高度を下げた。


「……低い!」


 駆は地を蹴った。卓球のコートより遥かに広いこの芝の上で、その一歩は永遠のように長く感じられる。

 ボールがバウンドする。通常なら、物理法則に従って跳ね上がるはずの球が、着弾した瞬間に「死んだ」かのように滑った。芝の葉先をかすめ、地面から数センチの高さを維持したまま、駆の足元へ突き刺さる。


「くっ……!」


 駆は反射的に膝を折った。卓球部時代、一日に何百回と繰り返した「しゃがみ込み」。テニスでは本来ありえないほど重心を低く落とし、地面に膝を擦りつけながらラケットを差し込む。

 ガッ、と硬い音がして、手首に鉛のような重さが伝わった。


「重い……なんだ、この球……!」


 回転がかかっていないのではない。逆だ。あまりに緻密で、あまりに密度の高いアンダースピンが、ボールを地面へと縫い付けている。

 駆は強引に手首を返し、得意のトップスピンで持ち上げようとした。だが、インパクトの瞬間、手首の腱がピアノ線を限界まで引き絞ったような「高音」を上げた。


「……あが、っ!」


 打球は力なくネットに突き刺さった。

 手首の芯に、贅沢なまでの痛みが走る。それは神経を逆撫でするような鋭い疼きだった。


「カケール! 力を抜くんだ! 柴田さんのスライスは、力で挑めば挑むほど、その回転に己の腕を破壊されるぞ!」


 リチャードの悲鳴のようなアドバイスが飛ぶ。

 柴田は、表情一つ変えずに再びラケットを構えた。


「テニスは、空を飛ぶスポーツではない。どれだけ高く跳ぼうと、最後は地面に膝をつく。……駆君。君の『野性』、その重力にどこまで耐えられるかな」


 再び放たれた「死の球」。

 駆の視界が、汗で黄金色に歪み始める。

 膝から伝わる芝の冷たさと、手首から立ち上がる火のような熱。

 完璧な「正解」を求めて高みへ昇ったケンとは対照的に、駆は今、この異世界の底辺で、泥臭い「生」の深淵に引きずり込まれようとしていた。


「……上等だよ。地面なら、掃いて捨てるほど這いずり回ってきたんだ」


 不器用な情熱が、その瞳の奥で漆黒の狂気を再び燃やし始める。

 それは、完成された理論を汚し、泥にまみれさせるための、カオスの産声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ