第5話:地を這う老雄
第5話:地を這う老雄
グリーンフィールド・アリーナ。そこは「始まりの地」に相応しく、抜けるような青空と、呼吸を深めるたびに肺腑を洗うような芝の香りに満ちていた。
だが、コートの中央に立つ一人の老人を目にした瞬間、駆の肌は粟立った。
柴田。
白髪を短く整え、使い古されたラケットを杖のように突いて立つその姿は、スポーツマンというよりは、枯山水の庭を眺める隠居人のようだった。しかし、その足元だけが、周囲の陽光を吸い込んだように昏い。
「……リチャード君じゃないか。こんなところで再会するとは、神様も悪戯が過ぎる」
老人が細い目を開いた。その声は穏やかで、まるで旧友を茶に誘うかのような響きがあった。
「オーゥ……柴田さん!? まさか貴方も、この『不思議な世界』に招かれていたとは」
リチャードが、驚きのあまり抱えていた寿司の空桶を落としそうになる。その顔は、コーチとしての仮面が剥がれ、かつての「一人の挑戦者」の表情に戻っていた。
「二十年前、ロンドンの片隅で君と打ったスライスが、昨日のことのように思い出せるよ。君のサーブ・アンド・ボレーは美しかった。だが、ここでのテニスは少しばかり『重力』の意味が違ってね」
柴田は視線を、リチャードの隣で殺気を隠そうともしない駆へと移した。
「それが、君の新しい希望かい? ……随分と、飢えた目をしている」
「挨拶は終わったかよ、ジジイ。アンタがエリア・マスターなんだろ」
駆は一歩前へ出た。手首のサポーターを締め直す指先が、微かに震えている。武者震いか、あるいは本能的な警告か。柴田の全身からは、一滴の汗も、一片の無駄な熱量も感じられない。ただ、そこにあるのは「静寂」という名の暴力だった。
「若者は急ぎたがる。さっきの若者もそうだった。……だが、私のテニスは退屈だよ。泥を啜り、膝を折り、地べたを這いずり回る。君のような派手さを愛する者には、いささか酷な時間になるかもしれない。長話もなんだ…そろそろ始めようか」
審判の宣告と共に、試合が始まった。
柴田のサーブ。それは、プロの試合で見られるような爆発的な衝撃音を伴わない。シュル、という衣擦れのような音と共に放たれた球は、ネットを越えてから急激に高度を下げた。
「……低い!」
駆は地を蹴った。卓球のコートより遥かに広いこの芝の上で、その一歩は永遠のように長く感じられる。
ボールがバウンドする。通常なら、物理法則に従って跳ね上がるはずの球が、着弾した瞬間に「死んだ」かのように滑った。芝の葉先をかすめ、地面から数センチの高さを維持したまま、駆の足元へ突き刺さる。
「くっ……!」
駆は反射的に膝を折った。卓球部時代、一日に何百回と繰り返した「しゃがみ込み」。テニスでは本来ありえないほど重心を低く落とし、地面に膝を擦りつけながらラケットを差し込む。
ガッ、と硬い音がして、手首に鉛のような重さが伝わった。
「重い……なんだ、この球……!」
回転がかかっていないのではない。逆だ。あまりに緻密で、あまりに密度の高いアンダースピンが、ボールを地面へと縫い付けている。
駆は強引に手首を返し、得意のトップスピンで持ち上げようとした。だが、インパクトの瞬間、手首の腱がピアノ線を限界まで引き絞ったような「高音」を上げた。
「……あが、っ!」
打球は力なくネットに突き刺さった。
手首の芯に、贅沢なまでの痛みが走る。それは神経を逆撫でするような鋭い疼きだった。
「カケール! 力を抜くんだ! 柴田さんのスライスは、力で挑めば挑むほど、その回転に己の腕を破壊されるぞ!」
リチャードの悲鳴のようなアドバイスが飛ぶ。
柴田は、表情一つ変えずに再びラケットを構えた。
「テニスは、空を飛ぶスポーツではない。どれだけ高く跳ぼうと、最後は地面に膝をつく。……駆君。君の『野性』、その重力にどこまで耐えられるかな」
再び放たれた「死の球」。
駆の視界が、汗で黄金色に歪み始める。
膝から伝わる芝の冷たさと、手首から立ち上がる火のような熱。
完璧な「正解」を求めて高みへ昇ったケンとは対照的に、駆は今、この異世界の底辺で、泥臭い「生」の深淵に引きずり込まれようとしていた。
「……上等だよ。地面なら、掃いて捨てるほど這いずり回ってきたんだ」
不器用な情熱が、その瞳の奥で漆黒の狂気を再び燃やし始める。
それは、完成された理論を汚し、泥に塗れさせるための、カオスの産声だった。




