第37話:境界の消失、最高の一球
第37話:境界の消失、最高の一球
第三セット、第四セット。記憶は汗と血の味に塗り潰され、泥沼のような星の奪い合いの果てに、スコアボードは『セットカウント、2-2』のタイを示していた。
「オーゥ……神よ! どうか私の腹回りの脂肪を全て捧げますから、カケールの右腕を繋ぎ止めてクレ!」
ファイナルセット直前のインターバル。リチャードが天を仰ぎ、自らの巨大なズボンのサスペンダーを引きちぎって俺に差し出してきた。
「このサスペンダーは私の規格外の腹部を十年支え続けた伝説のゴムだヨ! これでラケットと腕をグルグル巻きにするんダ!」
「バカ、リチャードのズボンがずり落ちるだろ! マッチポイントで身内のパンイチなんて見たくねえよ!」
俺は口から血の混じった唾を吐き出しながら、ヘラヘラと笑ってそのゴムを奪い取った。
冗談で言ったつもりだったが、リチャードの目は本気だった。俺の右腕は、もはや自力でラケットを握る握力すら喪失していたからだ。
俺はテーピングの代わりに、そのサスペンダーで右腕とラケットのグリップを強引に縛り付け、固定した。不格好極まりない。だが、これでラケットがすっぽ抜けることはない。
「……サンキュー。最高にゴム臭えけど、頼りになるぜ」
「カケール……」
俺は立ち上がり、白磁の庭へと歩みを進めた。
ネットの向こう側。そこには、俺と同じようにボロボロになったケンが立っていた。
純白だったウェアは俺の泥臭い打球を這いつくばって拾い続けたせいで真っ黒に汚れ、黄金比の髪型も汗で額に張り付いている。
だが、その青い瞳だけは、これまでのどんな時よりも純粋な、宝石のような熱を放っていた。
『ファイナルセット、第13ゲーム。新卓・アドバンテージ……プレイ!』
6-6のタイブレーク。俺のマッチポイント。
ケンが、最後の一球に向けて静かにボールをバウンドさせる。
ドクン。
エターナル・ドームの無音の空間で、俺とケンの心臓の音が、完全に重なり合った。
呼吸の同期。
相手の肺胞に空気が満ちる微かな摩擦音すら、肌に張り付くような湿度を伴って耳の奥に響く。ネットを挟んだ十数メートルの距離が、まるで一つのカプセルに閉じ込められたように濃密な熱を帯びていた。
ケンのトスが上がる。
放たれたのは、数式で計算された『最適解』ではない。一人のアスリートが、全身の筋肉を軋ませ、魂を燃やして打ち込む、純粋な『命の塊』だった。
ドゴォォォンッ!!
大気を震わせ、俺のフォア側へと一直線に突き刺さる白刃。
時間が、極限まで遅くなる。
ボールのフェルトが回転し、空気を削る音が、コマ送りのように脳髄へと流れ込んでくる。
俺は、限界を迎えた足に鞭を打ち、白磁の床を蹴り上げた。
だが、俺の右腕はもう『魔球』も『エッグボール』も生み出せない。手首の関節は死に絶え、サスペンダーで固定されたただの棒切れに成り果てていた。
(魔球なんか、もういらねえよ)
俺は、一歩踏み込み、腰を深く落とした。
頭に浮かんだのは、異世界に来て一番最初、あのボコボコの庭でリチャードが教えてくれた『基礎』。
手首をこねるな。膝を使い、体幹を回し、体重のすべてをボールの芯にぶつけろ。
誰にでもできる、何の変哲もない、最もありふれたストローク。
「うおおおおおっ!!」
俺の狂気的な執念が、死に体の肉体を強制的に駆動させる。
左手でラケットの喉元を支え、右腕を固定したまま、身体の捻転だけでボールを押し出す。
ガァンッ!!
俺の命の重さを全て乗せた打球は、魔球のような不規則な変化は一切しなかった。
ただ真っ直ぐに。
一筋の泥臭い光となって、ケンのコートへと突き進む。
「……来いっ、駆!!」
ケンが咆哮し、その光を正面から受け止めようとラケットを振り抜いた。
互いの不器用な情熱が、ネットの中央で正面衝突する。
バチィィィンッ! という、落雷のような音がドームを揺らした。
「く、あああああっ……!」
ケンの腕の筋肉が隆起し、俺のボールを押し返そうとする。
だが、サスペンダーで強引に繋ぎ止め、俺の全存在を乗せたその『普通の一球』には、計算を覆すだけの、圧倒的な「命の質量」が宿っていた。
パキッ、と。
ケンの手首が弾かれ、そのラケットのガットが限界を超えて破断した。
ボールはケンのラケットを突き破り、後方の白磁の壁へと、鈍い音を立ててめり込んだ。
コロコロ……。
ボールが床に落ちる小さな音が、永遠のような静寂の中に吸い込まれていく。
『ゲーム、セット、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!!』
審判の震える声が響いた瞬間、俺の膝から力が抜け、白磁の床に仰向けに倒れ込んだ。
視界が、滲んだ汗でぐちゃぐちゃに歪む。
右腕はもう動かない。息をするだけで肺が千切れそうだ。
だが、顔を覆う左手の隙間から、ヘラヘラとした笑いがどうしようもなく溢れ出た。
「……ハァッ、ハァッ……。お前の数式、俺のテニスで……書き換えてやったぜ、ケン」
足音が近づいてくる。
見上げると、そこには泥だらけのウェアを着て、ガットの破れたラケットを握りしめたケンが立っていた。
ちぐはぐな靴下は、激しいフットワークのせいでボロボロに擦り切れている。
彼は荒い息を吐きながら、俺の顔を見て――ふっと、本当に昔のような、ただの16歳の少年のように、腹の底から笑い出した。
「……ああ。完全に、めちゃくちゃにされたよ。君のテニスは……本当に、世界で一番タチが悪い」
ケンが、俺に向けて泥だらけの右手を差し出す。
俺も、痙攣する左手を伸ばし、その手をしっかりと握り返した。
エターナル・ドームの空を、俺たちの荒々しい、だがどこまでも澄み切った呼吸が満たしていく。
絶対正解の神様は死んだ。
代わりにここには、汗と泥にまみれながら、ただテニスを愛してやまない二人のバカな男たちが残された。
俺たちの、不器用で、めちゃくちゃで、最高に熱い物語は、ここからまた新しい局面へと転がり出していくのだ。




