第36話:純白を汚す血、同期する呼吸
第36話:純白を汚す血、同期する呼吸
第二セットは、泥沼の消耗戦へと雪崩れ込んでいた。
パァンッ! ドゴォンッ!
エターナル・ドームの完璧な空調システムが、俺たちの放つ異様な熱気と汗の匂いを処理しきれず、コート上には薄く熱い靄がかかっているようだった。
「おおおおおっ!」
「はあああああッ!」
俺とケンの咆哮が、交互に白磁の庭に響き渡る。
数式を捨てたケンは、もはや「美しいテニス」などしていなかった。
俺の狂った魔球に対し、彼は身体を弓のように反らせ、黄金比のフォームを自ら崩してまで、泥臭くボールに食らいついてくる。純白だった彼のウェアは、スライディングのたびに床の摩擦で汚れ、俺と同じように「生きているアスリート」の証明である醜いシミだらけになっていた。
ズドォンッ!
ケンの強打が、俺の足元を深く抉る。
速い。重い。数式の枷を外したあいつの力は、バロウの暴力とは違う、純粋な『才能の解放』だった。
(……やべえ。一歩でも引いたら、完全に呑み込まれる……!)
俺は痛覚が完全にショートした右手首を、もはや「命を削るための杭」としてしか見ていなかった。
踏み込む。
膝の裏側で筋肉が悲鳴を上げる。
シャツが汗を限界まで吸い込み、皮膚を重く縛り付けている。だが、その不快感すらも、俺にとっては「今ここにある現実」を強烈に感じさせる極上のスパイスだった。
バキィッ!
ボールを擦り上げた瞬間、右手首の奥で、ついに肉が裂け、微量の血が皮膚の裏側へと噴き出す不吉な感触があった。
視界が一瞬、真っ暗になる。
だが、俺の放ったボールは、物理法則を完全に超越した超絶サイドスピンとなり、ケンのバック側へと急激に曲がり落ちた。
「……届くっ!」
ケンが、転倒も辞さない凄まじいダイブを見せる。
彼のラケットの先端がボールを捉え、辛うじてネットのこちら側へとふわりと返ってきた。
チャンスボール。
だが、俺の下半身は、すでに限界のその先まで削り取られていた。
足が、前に出ない。
脳が「動け」と命令しているのに、筋肉が神経の信号を拒絶している。
(クソッ……ここまで来て、身体が……っ!)
ボールが、ゆっくりと俺のコートへと落ちていく。
もう駄目かと思った、その時だった。
「オーゥ、カケール! 君の足はまだ止まらない! なぜなら、今朝の朝食で、最高に消化吸収のいい特製マフィンを作ってあげたからサ!」
静寂のドームに、リチャードの場違いに陽気な声が響いた。
「……っ!?」
その瞬間。
俺の脳裏に、なぜかリチャードのお節介な笑顔がフラッシュバックした。
ギャグみたいな記憶。だが、そのどうしようもない「日常の記憶」が、凍りついていた俺の神経に、一滴の温かい潤滑油を注ぎ込んだ。
「……アハハッ! 本当にお節介なリチャードだな!」
笑いが込み上げると同時、俺の足が、最後の一歩を強引に踏み出していた。
間に合う。
俺は、痙攣する右腕を大きく振りかぶり――いや、振る力すら残っていなかった。
俺はただ、ラケットをボールの落下点に差し出し、己の身体ごとネット際へと突っ込んだ。
パァンッ!!
ボールは俺のラケットのフレームに当たり、不規則な軌道を描いて、ケンのコートの最前列へとボトリと落ちた。
「……」
ケンは、ダイブした姿勢のまま、そのボールの行方を見つめていた。
静寂。
そして。
『ゲーム、アンド・セット! 第二セット、7-5で新卓駆が獲得!』
審判のコールが響いた瞬間、俺は糸が切れたようにその場に仰向けに倒れ込んだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
天井の照明が、滲んで二重に見える。
右腕は、もはや自分の意思では指一本動かせない。完全に壊れた。次のセットを戦うことなど、どう考えても不可能だ。
だが。
ネットの向こう側から、足音が近づいてくるのが分かった。
ケンが、泥だらけのウェアのまま、ネットを挟んで俺の顔を覗き込んでいる。
その額からは大粒の汗が滴り落ち、息は激しく乱れていた。
「……ひどい顔だね、駆」
「お前こそ……完璧なチャンピオンの顔じゃねえぞ、ケン」
俺たちは、荒い呼吸を繰り返しながら、見つめ合った。
そこには、かつての「強固な数式」も「孤高の殺気」もない。ただ、同じ時代に、同じボコボコの庭でテニスに出会った、二人の少年の純粋な熱だけがあった。
「駆。君の右腕は、もう限界だ。……これ以上やれば、一生テニスができなくなる」
ケンが、初めて痛切な響きを帯びた声で言った。
「ああ、分かってるよ」
俺は、左手で顔の汗を拭い、ニヤリと笑った。
「だからこそ、ここで全部使い切ってやるんだよ。お前に『俺のテニスが最強だ』って、認めさせるためにな」
セットカウント、1-1。
俺の肉体は限界をとうに超え、破壊のカウントダウンは最終段階に入っている。
だが、この熱狂の渦の中で、俺の心臓は最高潮のリズムで脈打ち続けていた。第三セット、本当にすべてが燃え尽きる、最後の狂宴が始まろうとしていた。




