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スマッシュフロンティア  作者: あめたす


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第35話:崩壊の足音と、泥まみれの神様

第35話:崩壊の足音と、泥まみれの神様


 第二セット、第5ゲーム。

 エターナル・ドームの完璧に管理された空気が、むせ返るような獣の熱気に汚染され始めていた。


 俺の放つ魔球が、ケンの絶対的な数式を無残に食い破っていく。

 バウンドした瞬間に重力を失ったように失速するスライス。地面を抉り、手元へと獰猛に跳ね上がるトップスピン。

 俺自身にすら軌道が読めない。なぜなら、その変化を生み出しているのは、俺の右手首の中で砕け、ズレた骨と靭帯の「物理的なバグ」なのだから。


 ビギャッ!!


 ラケットを振り抜くたび、手首の奥でピアノ線が千切れる寸前の高音が鳴り響き、古い木造建築が暴風に耐えきれずに崩落するような、鈍くおぞましい軋みが骨の芯を伝う。

 激痛のピークはとうに過ぎた。今はただ、右腕が千切れて飛んでいかないように、左手で無理やりグリップを支えている状態だ。

 額から滴り落ちる重い汗がまつ毛を濡らし、塩分で視界を黄金色に歪ませる。生命の飛沫が、白磁のコートに醜い黒点となってこびりついていた。


「ハァッ……ハァッ……!」


 ネットの向こう側で、ケンが荒い息を吐いていた。

 彼の端正な顔は焦燥に歪み、常に彼を包んでいた「氷のような絶対的オーラ」は見る影もない。


「空気抵抗値の変動……スピン量の不規則な減衰……。違う、計算が合わない……! なぜ、そこでボールが失速する……!」


 ブツブツと、壊れた機械のように呟きながら、ケンは俺の魔球に食らいつこうとする。

 だが、頭で理解できない現象に、彼の肉体はブレーキをかけてしまうのだ。


「遅えよ、天才!」


 俺は痛みを脳内で咆哮に変換し、ネットすれすれの超低空スライスを放った。

 ボールは白磁の床に触れた瞬間、地を這うように横へと鋭く逃げる。

 ケンが弾かれたように飛びつく。彼の黄金比のフットワークが、数式を捨てて本能でボールに手を伸ばした、その刹那だった。


 ――ズルッ!


「えっ……!?」


 摩擦係数ゼロの白磁の床。

 ケンの踏み込んだ左足が、見事なまでに滑った。

 彼は空中で無様にバランスを崩し、「すてんっ!」と情けない音を立てて、尻から派手にコートに転がった。ボールは彼のラケットの遥か先を通り過ぎていく。


『ゲーム、新卓駆! ゲームカウント、4-1!』


 静寂のドームに、信じられないものを見るような空気が流れた。


「……ぶっ、アハハハハハハッ!!」


 俺は、痙攣する右腕を押さえながら、腹の底から大笑いした。


「言っただろ! ナイキとアディダスのパイル地の厚み、0.2ミリの違いが命取りになるってな!」


「オーゥ、マイ・ゴッド! 靴下の神様が、ついに完璧な数式に天罰を下したヨ! やっぱりウェアは上下左右、完璧に揃えないと英国紳士とは呼べないネ!」


 ベンチのリチャードも、身を乗り出して大はしゃぎしている。

 完璧なチャンピオンが、ちぐはぐな靴下のせいでスッ転んだ。これ以上ないほどマヌケで、最高に人間らしいエラーだ。


「…………痛っ」


 ケンは、床に座り込んだまま、ぽつりとこぼした。

 そして、自分の左右の靴下をまじまじと見つめ、顔を真っ赤にしてうつむいた。


「……計算、外だ。こんなバカなことで、僕のバランスが崩れるなんて」


「バカなことじゃねえよ」


 俺はネット越しに、彼を見下ろした。


「計算通りにいかないから、テニスは面白いんだろ? どんなに完璧に準備したって、靴下を履き間違える日もある。それが人間だ。お前は神様なんかじゃない、ただの『ケン・ハワード』だろ」


 ケンの肩が、ビクンと震えた。

 彼はゆっくりと顔を上げた。その青い瞳から、今まで彼を縛り付けていた「絶対正解」という名の冷たい氷が、完全に溶け落ちていた。

 代わりにそこにあったのは、ボコボコの庭でボールを追いかけていた頃の、負けず嫌いで、純粋な少年の熱だった。


「……君の言う通りだ、駆」


 ケンは床から立ち上がり、乱れた髪を無造作に掻き上げた。

 純白のウェアには、転んだ時の黒い汚れがベットリとついている。だが、今の彼の方が、先ほどの神様のような姿よりも何百倍も強大で、恐ろしく見えた。


「計算なんて、もう無意味だ。君のテニスは……本当に最低で、最高だ」


 ケンが、ラケットを構え直す。

 その構えには、もう「無駄を省いた機能美」はない。全身の筋肉を躍動させ、泥にまみれてでもボールに食らいつこうとする、一人の野獣の構えだった。


「来いよ、ケン! 俺の右腕が千切れるのが先か、お前が泥まみれになるのが先か、試してやろうぜ!」


「行くぞ、駆!!」


 ケンの口から、初めて咆哮が上がった。

 放たれたサーブは、座標も計算も度外視した、ただ純粋な「力と熱」の塊だった。


 ガァンッ!!


 俺はそれを、壊れた手首のバグで無理やりひねり返す。

 パァンッ! ドゴォンッ!


 エターナル・ドームの無菌の空気が、完全に燃え上がった。

 ネットを挟んで、二人の男がただボールを打ち合う。

 視界が黄金色に歪み、肉体が悲鳴を上げる。だが、俺たちの呼吸は完全に同期していた。相手の肺が膨らむ音までが聞こえるような、官能的な静寂が二人の間を支配する。


 一球打つたびに、エリートが作り上げた「世界基準」の数式が砕け散り、泥臭い「不器用な情熱」がコートを染めていく。

 俺とケンの、本当に楽しい殺し合い(テニス)が、限界を超えた領域でついに火花を散らした。


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