第34話:泥まみれの魔球、崩壊する数式
第34話:泥まみれの魔球、崩壊する数式
剥き出しになった右手首が、白磁の庭の空気に触れた瞬間、ズキリと不吉な脈を打った。
どす黒く内出血し、異常なほど腫れ上がった関節。それを視界の端に捉えたケン・ハワードの青い瞳が、初めて微かな揺らぎを見せた。
「……狂ったか、駆。その手首はすでに構造的な破綻を起こしている。今の君に、エッグボールを打つ体幹の力も残っていないはずだ」
ケンは、解き明かしたはずの数式に、突如として理解不能な変数が混入したことに戸惑いを隠せない。
俺は痛む右腕をぶらりと下げたまま、ヘラヘラとした笑みを深めた。
「エッグボール? そんな行儀のいい球、もう打たねえよ」
俺の言葉に、ケンの眉がピクリと動く。
「……何を」
「俺のテニスはな、ケン。もっと汚くて、不格好で……最高に予測不能なんだよ」
第二セット。俺のサービスゲームから始まる。
俺はボールを空高く放り投げた。
ジャンプはしない。疲労で鉛のように重い下半身はそのままに、ただ右手首の関節だけを、常識外れの角度に捻り上げる。
アイザック戦で編み出した『魔球サーブ(卓球の王子サーブの応用)』。
だが、ただの魔球じゃない。テーピングの拘束を解き、痛みのリミッターを完全に外した、文字通り「骨を削って」放つ、極大回転の魔球。
ビギャッ!!
ボールを擦り上げた瞬間、手首の奥でガラスの破片が暴れ回るような、脳髄が焼き切れるほどの激痛が走った。
視界が白く飛ぶ。だが、俺のラケットから放たれたボールは、大気を不気味に歪ませながら、ケンのコートへとネットすれすれで滑り込んでいった。
「……こんなもの、僕のデータには」
ケンが流麗なステップでボールに追いつく。
だが、彼のラケットがボールに触れた瞬間――。
ギュルンッ!
「なっ……!?」
ボールはラケット面の上で異常な摩擦を起こし、ケンの想定した反発角とは全く違う方向――真下へと、急激に潜り込んだ。
ケンのラケットからポロリとこぼれ落ちたボールが、白磁の床を力なく転がる。
『フィフティーン・ラブ……』
審判のコールが、静寂のドームに響く。
ケンは、自分のラケットを信じられないといった様子で見つめていた。
「オーゥ……カケール、なんて恐ろしい回転量だヨ……! 今のサーブ、彼のラケットのガットを数本、摩擦熱で焼き切っているネ……!」
ベンチのリチャードが、驚愕と恐怖の入り混じった声を上げる。
そう。俺の魔球は、もはやコースやタイミングで勝負するものではない。ボールそのものに「予測不能な生命」を吹き込み、ケンのラケットという物理的な計算機を直接バグらせる劇薬だ。
「……ハァッ、ハァッ……。どうだ、天才。お前の数式に、こんな泥臭いエラーは入ってなかったろ?」
俺は脂汗を流しながら、ラケットで床をコツンと叩いた。
「偶然だ。……次の球で、完全に補正してみせる」
ケンが冷徹な表情を取り戻し、再び構えに入る。
だが、俺の魔球は、彼が「補正」できるような生易しい代物ではなかった。
パァンッ! ギィィンッ!
俺が打つたびに、右手首から絶望的な破断音が鳴る。
その代償として生み出される、予測不能な変化。
ネットを越えて急激に沈む球。バウンド後に手元へ跳ね上がる球。外側へ鋭角に逃げていく球。
ケンの美しいテニスが、俺の泥にまみれた魔球に巻き込まれ、次第にその形を歪ませていく。
「くっ……!」
ケンの端正な顔が、初めて明確な焦りに歪んだ。
彼は必死に足を動かし、俺の魔球にラケットを合わせるが、その打球はことごとくネットを叩くか、アウト軌道を描く。
『ゲーム、新卓駆! ゲームカウント、1-0!』
俺が第二セットの第1ゲームをブレイクした。
エターナル・ドームの完璧な空調の中で、ケンの額から、一筋の冷や汗が流れ落ちる。
「……なぜだ。君の打球の回転軸は、打つ瞬間のフォームから計算できるはず……なのに、なぜ僕の予測値からズレる……!」
「計算? そんなもん、俺の手首の中にある『破片』に聞いてくれよ」
俺はヘラヘラと笑いながら、どす黒く腫れた右手首を掲げた。
「俺の手首は、もうまともに関節が繋がってねえんだよ。打つたびに骨がズレて、勝手に変な回転がかかりやがる。……俺自身にも、次どんな変化をするか分からねえんだ。お前の数式が、それを予測できるわけねえだろ?」
「……自分自身でも制御できない球を、打っているというのか……!?」
ケンの声が、初めて震えた。
それは、彼が築き上げてきた『絶対正解』のテニスが、根本から否定された瞬間だった。
理論で解けない数式はない。彼はそう信じていた。だが、目の前にいる俺は、数式そのものを破壊する『純粋な混沌』だ。
「そうだ。これが、俺の『最強』だ」
俺は、血の滲むような激痛に耐えながら、再びケンに向かってラケットを構えた。
「さあ、泥遊びの続きだ。お前のその綺麗なウェアが真っ黒になるまで、俺のボールを追いかけ回してくれよ、ケン」
狂気と執念が、白磁の庭を侵食していく。
完璧な数式が崩壊し、絶対正解の天才が、ついに未知の恐怖に直面する。
第二セット。本当の頂上決戦が、ここから泥まみれの熱を帯びて加速し始めた。




