第33話:絶対正解と、崩壊する肉体
第33話:絶対正解と、崩壊する肉体
呼吸が同期する。
無風、適温、一切の気流の乱れがないエターナル・ドーム。この純度100%のテニス培養室の中で、俺の心拍とケンの心拍は、ネットを挟んでピタリと重なり合っていた。
パァンッ、と涼やかな音を立てて、ケンのストロークがコートの角を抉る。
無駄な力みが一切ない、スイングの理想形。ボールには、重力に愛されているかのように滑らかで『正しい』回転がかけられ、俺の足元の最も返しにくい座標へと正確に落ちてくる。
それは、慎吾が計算していたデータ上の軌道とは違う。生きている人間が放つ、血の通った『絶対正解』だった。
(……すげえ。やっぱお前、とんでもねえ化け物だよ)
俺は全身の筋肉を軋ませながら、金属の芯材が入ったテーピングでガチガチに固められた右腕を振るう。
手首の関節は一切動かせない。だからこそ、足の裏でコートを掴み、大腿から腰、背骨へと巻き上げるようなトルクを生み出し、ラケットのヘッドを力任せに擦り上げる。
グォォンッ!
放たれたエッグボールは、ケンの美しい軌道とは真逆の、楕円に歪んだ醜い弾道を描き、急激に落下する。
だが、ケンは涼しい顔のまま、その『混沌』を流麗なステップで迎え撃ち、最も効率の良い角度でラケットを合わせて無力化してしまう。
「無駄だよ、駆。君の回転のピークは、バウンド後の初速からコンマ2秒後。その前に抑え込めば、ただの推進力のない球に過ぎない」
「へっ、口で言うのは簡単だな!」
ゲームカウントは、互いに一歩も譲らず4-4。
スコア上は拮抗している。だが、肉体の内側では、絶望的な格差が口を開け始めていた。
俺の全身の毛穴からは滝のように汗が噴き出し、ウェアはすでに限界まで水分を吸って鉛のように重い。視界は塩分で白く濁り、肺は酸素を求めてヒューヒューと悲鳴を上げている。
対照的に、ケンは額に薄っすらと汗を滲ませている程度だ。
息の乱れもない。彼のテニスは、エネルギーのロスが完全にゼロなのだ。同じ一球を打つにしても、俺が100の命を削っているとすれば、ケンはたったの10で済ませている。
(……このまま五セットマッチなんてもつれ込めば、間違いなく俺の身体が先に終わる)
右腕の奥深く、麻痺していたはずの神経が、再びチリチリと嫌な熱を持ち始めていた。
エッグボールは、手首の負担を減らす代わりに、肩や腰といった体幹への負荷を劇的に跳ね上げる。限界を超えて酷使された肉体が、あちこちで「これ以上の稼働は不可能だ」と警告のノイズを発し始めていた。
「オーゥ……カケール、なんてこった……。彼のテニスは、まさかあのレベルにまで到達しているとは……」
ベンチに座るリチャードが、両手で頭を抱えるようにして呻いた。
「どういうことだよ、リチャード」
俺は息を整えながら、ネット越しにケンを睨みつける。
「彼はね、君のエッグボールを『学習』しているんだヨ。ラリーを重ねるごとに、君の回転量、ボールの重さ、弾道の歪み……その全てを自分の数式の中に取り込み、最適解をアップデートし続けている。だから、君が打てば打つほど、彼の返球はより正確に、より鋭くなっていく……!」
その言葉の意味を、俺の肉体が一番理解していた。
第一ゲームよりも、今の第八ゲームの方が、ケンの球ははるかに俺の足元を深く抉ってくる。俺の放つ混沌が、あいつの秩序の養分として喰われているのだ。
「駆。君の不確定要素は、確かに素晴らしい素材だった」
ケンが、スッとラケットを構え直す。
その青い瞳の奥に、残酷なまでの知的好奇心が煌めいた。
「だが、どんなカオスも、最後には美しい秩序の前に収束する。それがこの宇宙の、そしてテニスの絶対の真理だ。……そろそろ、君のその泥臭いテニスを、僕の数式で完全に制御させてもらうよ」
ケンの足が、滑るように動いた。
ちぐはぐな靴下を履いているにもかかわらず、そのフットワークには0.01パーセントの狂いもない。
放たれたストロークは、俺がエッグボールを打つために「もっともタメを作りづらい」最悪のタイミングと座標へと、音もなく滑り込んできた。
(……読まれてる。俺の身体の限界点まで、完全に……!)
俺は歯を食いしばり、強引に腰を捻った。
だが、筋肉が悲鳴を上げ、反応が一瞬遅れる。
ラケットのフレームにボールがガツンと当たり、無様な音を立ててネットの真ん中へ突き刺さった。
ケンの冷酷なハッキングが、ついに俺の肉体を完全に捉えた。
一球、また一球。
俺が必死にひねり出す野生の反撃を、ケンは先回りして無力化し、俺の肉体が最も削られるコースへとボールを置き続ける。
「ハァッ……、がっ……!」
ついに、俺の足がもつれた。
激しいラリーの末、ケンの放った鋭角のドロップショットに対し、俺の下半身は完全に動くことを拒否した。
白磁の床に、俺の膝がガクンと崩れ落ちる。
『ゲーム……ケン・ハワード! 第一セット、6-4でケン・ハワードが先取!』
審判のコールが、絶望の宣告のようにドームに響き渡った。
「……これで分かっただろう、駆」
ネットの向こうで、ケンが静かに俺を見下ろしている。
その表情に、勝ち誇った様子はない。ただ、解き終わった数式を眺めるような、虚無感に近い冷たさだけがあった。
「君の不器用な情熱は、僕の数式を書き換えるには至らなかった。……君のテニスは、ここで終わりだ」
俺は、床に両手をついたまま、滴る汗の向こうでケンの顔を見上げた。
右腕は完全に感覚を失い、全身の筋肉は悲鳴を上げている。ケンの言う通り、俺の肉体はもう、次のセットを戦い抜くことすら不可能な状態まで削り取られていた。
だが。
俺の網膜の奥で、まだ燃え尽きていない『狂気』が、どす黒く、不気味な光を放ち始めていた。
(終わり……? 冗談じゃねえ)
俺は、ヘラヘラとした笑いを、顔に貼り付けた。
ボコボコの庭で、誰にも理解されなかった俺のテニス。手首の痛みを対価に引き換えてまで、この頂上まで登り詰めた理由。
「……ケン。お前の数式、確かに完璧だよ。俺のエッグボールは、完全に読まれちまったみたいだな」
俺は、ガチガチに固められた右手首のテーピングを、左手でガリガリと引き剥がし始めた。
「カケール!? 何をしている! それを外したら、君の手首は――!」
リチャードの制止の声も聞かず、俺はチタンの芯材が編み込まれた黒いテーピングを、完全に引きちぎった。
露わになった右手首は、どす黒く腫れ上がり、見るも無惨な状態だった。
だが、その関節の奥に刺さった『ガラスの破片』が、ようやく自由になったとばかりに、鋭い痛覚を俺の脳髄へと叩き込んでくる。
「……いいぜ、ケン。俺が持ってる全部を、お前の盤上にぶちまけてやる」
俺は、腫れ上がった右手でラケットを握り直した。
エッグボールではない。
手首の痛みを、限界を超えて解放する、本当の『魔球』の構え。
「第二セットだ。……ここから先は、地獄の泥遊びだぞ、天才」
痛みを燃料に変え、狂気の瞳がケンを射抜く。
最強の矛と最強の盾。二人の運命のチキンレースは、臨界点を越えて次のステージへと突入した。




