第32話:完璧な箱庭と、ちぐはぐな靴下
第32話:完璧な箱庭と、ちぐはぐな靴下
光の階段を登り切った先。肺を満たした空気は、酷く無味無臭だった。
コア・メトロポリスの肺を焼く排熱も、ミスト・フォレストのまとわりつく湿気も、絶望の断崖の荒れ狂う潮風もない。気温二十二度、湿度五十パーセント。気流の乱れは一切存在せず、上空の照明はコート上のどこにも影を作らないように計算し尽くされている。
異世界の頂点、チャンピオンが君臨する聖域の孤島――『エターナル・ドーム』。
「オーゥ……ここは、テニスのためだけに設えられた、神の箱庭だネ。言い訳なんて1ミリも通用しない。純度100パーセントの実力だけがモノを言う、残酷な処刑場サ」
リチャードが、白磁の庭で見せた取り乱し方を完全に消し去り、静かで重みのある声で呟いた。
その横で、俺は自分の右腕を見下ろしていた。
前室でリチャードが『私の特製コルセットの芯材を編み込んだ』という真っ黒なチタン入りのテーピングで、手首の関節をガチガチに固めている。もはや手首を曲げることは物理的に不可能だ。痛覚はとっくに麻痺し、右腕の肘から先は、自分の肉体というより、他人の腕を強引に縫い付けたような不気味な違和感だけがあった。
「……来てくれたんだね、駆。それに、父さんも」
無音の空間に、旋律のような声が響いた。
コートの中央。磨き上げられた鏡のような床の上に、白を基調とした洗練されたウェアを纏った青年が立っていた。
ケン・ハワード。
ハーフ特有の端正な顔立ちと、黄金比で構成されたような無駄のない骨格。彼がそこに立っているだけで、この巨大なドームが彼のために作られた額縁のように錯覚してしまう。
絶対的な秩序の化身。セシリアが言っていた通り、あいつは「人間としてのノイズ」を全て削ぎ落とした、完璧な神様みたいなオーラを放っていた。
「久しぶりだな、ケン。ずいぶんと立派な神殿に住んでるじゃねえか」
俺はヘラヘラとした笑いを顔に張り付け、ネット越しに親友と対峙した。
ケンの透き通るような青い瞳が、俺の泥だらけのジャージと、痛々しい右腕のテーピングを静かに見つめる。
「君の試合は全てデータで見ていたよ。相変わらず、無茶苦茶で、泥臭くて、……計算のつかない非効率なテニスだ」
ケンの言葉には、侮蔑も嘲笑もない。ただ、解くべき美しい数式の中に混ざり込んだ、理解不能なバグを観察するような、純粋で冷徹な好奇心だけがあった。
胸の奥が、チクッと痛む。
本当に、こいつはテニスの『絶対正解』を求めるあまり、それ以外の人間らしい感情や隙を、全部捨てちまったのか。
俺はため息をつき、ふとケンの足元へ視線を落とした。
そして、盛大に吹き出した。
「……ぶっ、アハハハハハッ!!」
「えっ……? 駆、何がおかしいの?」
完璧な神様の顔に、微かな当惑が浮かぶ。
俺は腹を抱えて笑いながら、ラケットを持つ左手でケンの足元を指差した。
「お前……右足がナイキで、左足がアディダスの靴下だぞ。しかも左足、裏返ってねえか?」
「……っ!?」
ケンがハッとして自分の足元を見下ろす。
そこには確かに、左右でメーカーの違う、見事なまでにちぐはぐな靴下が履かれていた。
「バ、バカな……! 今朝のウェア着用のプロトコルにエラーはなかったはずだ……。いや、待て。ナイキとアディダスでは、足底のパイル地の繊維の厚みが0.2ミリ違う。この微細な重心のズレが、私のスイング軌道に0.01パーセントの狂いを生じさせる可能性が……っ」
ケンが青ざめた顔で、ブツブツと高速の演算を口走り始める。
「オーゥ……」
ベンチのリチャードが、やれやれと首を振った。
「カケール。彼はテニスの真理に脳のメモリを割きすぎた結果、クローゼットの整理という日常生活の概念を完全にログアウトしてしまったんだネ……。セシリアは『勝つために靴下を選ぶ自由を捨てた』なんて美化していたけれど、ただの天然の度忘れサ」
「変わってねえな、お前。そういう抜けてるところ」
俺は笑い涙を拭いながら、ケンの顔を見た。
完璧な機械なんかじゃない。あいつは、昔ボコボコの庭で一緒に遊んでいた、不器用で、テニス以外はポンコツな従兄弟のままだった。
その事実が、俺の肉体にまとわりついていた極度の緊張を、春の雪解けのようにスッと溶かしてくれた。
「……笑うのはそこまでだ、駆。この靴下のズレすらも、第一セット中に新しい数式として補正してみせる」
ケンが頬を微かに赤らめながら、キッと俺を睨みつける。
だが、その瞳の奥に宿っていたのは、機械の冷たさではなく、見知ったライバルに向ける、熱を帯びた「負けず嫌い」の光だった。
「上等だ。お前の綺麗な数式、俺の泥で全部めちゃくちゃにしてやるよ」
『ファイブセットマッチ、ケン・ハワード・リザーブ。プレイ!』
電子音が鳴り響き、頂上決戦の幕が切って落とされた。
無風のドームの中、ケンの身体がふわりと宙に浮く。
一切の無駄がない、黄金比の彫刻が動いているかのような、美しすぎるサーブのフォーム。インパクトの瞬間、ボールの産声のような澄んだ破裂音が響いた。
(――速えッ! いや、それよりも……!)
ボールは、一直線に俺のフォア側のコーナー、ラインの数ミリ内側という、狂いのない『絶対正解』の座標へと突き刺さってくる。
俺は、右腕をコルセットのテーピングごと完全に固定したまま、野性のステップで白磁の床を蹴った。
手首は使えない。なら、足の裏から太腿、腰の捻り、肩甲骨の回転まで、全身の筋肉の連動をすべて使って、ラケットの面をボールの軌道に叩きつける。
ガァンッ!!
肉体と肉体が激突したかのような、生々しい衝撃が全身を貫く。
飛び散る汗が、視界を黄金色に歪ませる。
放たれた俺のリターンは、強烈なトップスピンを帯びたエッグボールとなって、ケンの足元へと急降下した。
「……やはり、君のそのカオスは、最高の素材だ」
ケンは涼しい顔のまま、流麗なフットワークでボールの落下点に滑り込み、俺の重い回転を、まるで柳の枝のようにしなやかなスイングで完璧に吸収し、跳ね返した。
パァンッ、ドゴォンッ!
静寂のドームに、二つの相反する打球音が連続して響き渡る。
ネットを挟んで、十数メートルの距離。
俺の荒々しい獣のような呼吸と、ケンの静かで規則正しい呼吸が、次第に同じリズムへと同期していくのが分かった。
皮膚に張り付くシャツの不快感も、右腕の奥で微かに脈打つ狂ったような違和感も、今はすべてが心地いい。
一瞬が、永遠のように引き延ばされていく。
ケンのまつ毛の震え、ボールの表面のフェルトが回転する音。その全てが、毛穴を通じて脳へと流れ込んでくる。
(ああ、楽しいな……ケン!)
狂気的な笑みが、自然と俺の唇を割って溢れ出す。
秩序と混沌。理論と野生。
魂のぶつかり合いが、無菌室の箱庭を、むせ返るような熱量の坩堝へと変えていった。




