第31話:融解する氷、頂への切符
第31話:融解する氷、頂への切符
白磁の庭は、もはや静寂の空間ではなかった。
「ハァッ……、ハァァッ!」
氷の女王の口から、熱を帯びた呼気がこぼれる。
セシリアのテニスは、完全に変貌していた。彼女の代名詞であった、音もなく滑るバックハンドのスライス。それに加え、今の彼女は隠し持っていた破壊的なフォアハンドの強打を、容赦なく俺のコートへ叩き込んできていた。
極限まで磨き上げられた二刀流。それは、ケン・ハワードの絶対正解をなぞる冷たい数式などではない。泥まみれの俺を前にして、己の全てを懸けて勝利をもぎ取ろうとする、一人のアスリートとしての生々しい執念だった。
「ハッ……いいぜ、セシリア。あんた、氷よりそっちの方がずっと人間らしくて最高だ!」
俺は滴る汗で黄金色に歪む視界を瞬きで払い、野性のステップで白磁の床を蹴り上げる。
シャツは体液を限界まで吸い込み、ずっしりとした重みとなって俺の皮膚を拘束していた。右手に巻かれたテーピングの下では、腱がピアノ線のように引き絞られ、スイングのたびに千切れる寸前の高音をキチキチと鳴らしている。
だが、その痛みが俺の脳をクリアに保つ。
パァンッ!!
セシリアのフォアハンドが、空気を切り裂いて迫る。
俺はリチャードに叩き込まれた『面のテニス(タクティクス)』を総動員し、彼女の苛烈な攻撃をいなす。
力を吸収して重い回転で返す『エッグボール』。
打点を前に落として勢いを殺す『ストップ』。
そして、軌道を読ませない『クイックショット』。
野生の暴力と、理論の緻密さ。かつてボコボコの庭で培った俺のテニスが、この極限状態の中で完全に一つの形へと統合されようとしていた。
「……ケン・ハワードは、孤独です」
激しいラリーの最中、セシリアの震える声がネット越しに届いた。
「彼は勝つための確率を上げるために、人間関係も、感情も、すべてを無駄として削ぎ落とした! 私でさえ、彼の数式の中ではただの邪魔なノイズに過ぎなかった!」
彼女の瞳の奥に、深く切ない後悔の色が滲む。
セシリアもまた、ケンの孤独なカリスマに惹かれ、そして彼に届かなかった敗北者なのだ。だからこそ、彼女は門番としてここに立ち、ケンを救う可能性を持つ本物の「イレギュラー」が現れるのを、冷たい氷の奥でずっと待ち望んでいたのだろう。
「あなたのその不器用な情熱で……彼の絶対の孤独を、本当に壊せるというのですか!」
セシリアが、高く舞い上がったボールに対し、全身全霊のスマッシュを放った。
白磁の庭を打ち砕かんとする、氷の女王の最後の一撃。
「……壊すに決まってんだろ」
俺は、落ちてくるボールから目を逸らさなかった。
ケンが何を捨てたかなど、知ったことではない。あいつが完璧な神様になりたいなら、俺が一番汚い泥をぶつけて、地面に引きずり下ろしてやる。靴下の履き間違えを腹抱えて笑ってやるのは、昔から俺の役目なんだよ。
一瞬が、永遠のように引き延ばされる。
ボールの毛羽立ちが、空気を震わせながら迫る。
俺は右腕をロックし、体幹に極限のタメを作った。セシリアは俺がエッグボールを打つと読み、ベースライン後方へと重心を下げている。
(――俺の、全部だ)
ボールがガットに触れた、その1ミリ秒。
俺はエッグボールの動作から、瞬時に右手首の関節を異常な角度で爆発させた。
ただのクイックショットではない。強烈なトップスピンと、手首のスナップによるサイドスピンを同時掛けした、究極の複合魔球。
ビキィッ!!
右手首の奥で、ついに決定的な破断の音が鳴った。
だが、放たれたボールは、セシリアの意表を突く超初速でネットを越え、バウンドした瞬間に猛烈に跳ね上がりながら、彼女のフォア側の外へ――コートの遥か外側へと、急激に折れ曲がって逃げていった。
「……あ」
セシリアが必死にラケットを伸ばす。
だが、ボールは彼女のラケットの先端を数センチすり抜け、無情にも白磁の壁へと叩きつけられた。
『ゲーム、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!』
審判の涼やかなコールが、ついに静寂を連れてきた。
「はぁ……はぁ……、いっ、てぇ……」
俺はラケットを取り落とし、完全に感覚を失った右手首を抱えて、その場に大の字に倒れ込んだ。
視界がぐるぐると回る。だが、胸の奥底には、かつてないほどの熱い達成感が満ち溢れていた。
「……私の、完全な敗北です」
セシリアが、ゆっくりとネットに近づいてきた。
彼女の顔は汗に濡れ、息は上がっていたが、その表情は今までで一番美しく、柔らかな笑みを浮かべていた。
「あなたのテニスは……本当に、めちゃくちゃで、汚くて……最高ですね。どうか、あの子の綺麗な数式を、あなたのカオスでめちゃくちゃにしてあげてください」
「……へっ、言われなくても、そのつもりだよ」
俺は仰向けのまま、左手でサムズアップを作った。
「オーゥ、妖精さんの涙に乾杯サ! この勝利の味は格別……ゲホッ、ヒィィィーッ! やっぱりこのピンクのお菓子、致死量のカプサイシンが入ってるヨォォー!」
ベンチの方で、感動のあまりうっかりまた激辛茶菓子を口に放り込んだリチャードが、再び噴水のように水を吹き出していた。
その間抜けな姿に、俺とセシリアは思わず吹き出して笑い合った。
笑い声が、白磁の庭に響き渡る。
俺は痛みで痺れる身体をなんとか起こし、遥か上空――チャンピオンの住まう聖域の孤島、『エターナル・ドーム』を見上げた。
(待ってろよ、ケン)
エリア・マスター、完全制覇。
俺とケンの、そしてリチャードの夢を懸けた最後の頂上決戦への扉が、今、静かに開かれようとしていた。




