第30話:盤上を汚す泥、氷解の絶対音
第30話:盤上を汚す泥、氷解の絶対音
無音。
ラケットがボールを捉えたはずなのに、手元には羽毛を斬ったような虚無感しか残らない。
セシリアの放つ純度100%のスライスは、白磁の床に触れた瞬間、前への推進力を完全に殺し、コートの上をツルリと滑る。バロウの鉄球が「剛」の絶望なら、これは「柔」の拷問だ。
「ハァッ……、クソッ……!」
踏み込み、強引にすくい上げようとする。だが、反発力がゼロの球に、俺のエッグボールは噛み合わない。空回りしたスイングが右腕の腱を無駄に引き絞り、ピアノ線が千切れる寸前の高音が、耳の奥でキチキチと鳴り響いた。
ポトン、と。
俺の返球は浅く浮き、セシリアは氷上を滑るようなステップでネット際に詰めると、最も美しい角度でボレーを沈めた。
『サーティ・ラブ』
審判のコールが、凍てついたアリーナに響く。
額から滴る汗が、まつ毛を濡らし、視界を濁らせる。俺の体温は異常なまでに跳ね上がっているというのに、ネットの向こう側の空間だけは、絶対零度の静寂に支配されていた。
「無駄です。熱くなればなるほど、氷の上では足を取られる。……それが、ケンが辿り着いた『感情の排除』という絶対正解の入り口なのですから」
セシリアの氷柱のような視線が、俺を冷たく見下ろす。
ケン。あいつの領域。
その言葉が、焦燥となって俺の肺を圧迫する。
「オーゥ、カケール! そのままじゃダメだヨ!」
ベンチから、激辛茶菓子のダメージでまだ唇をタラコのように腫らしているリチャードが、ペットボトルを振り回して叫んだ。
「彼女のテニスは、マイナス4度に冷やされた完璧なアールグレイ・ティーだ! そこにユーの沸騰したお湯を注いでも、風味が飛んでぬるくなるだけサ! 熱で勝てないなら、ミルクを入れて濁らせるんだヨ! 英国式にな!」
「……例えが渋滞しててよく分かんねえよ! でも……言いたいことは伝わった」
俺は、シャツの繊維を重くする体液の不快感を無視し、深く息を吐いた。
紅茶を濁らせる。
つまり、彼女の「完璧なチェス盤」を、俺の泥で汚してしまえということだ。
(野生だけで勝てないなら、頭を使え……!)
俺は、ヘラヘラとした笑いを顔に張り付け、ラケットのグリップを短く持ち直した。
セシリアのサーブが放たれる。
音のない、鋭利な刃物のようなスライス。
俺はエッグボールの構えで大きく足を踏み込んだ。セシリアの瞳が「また同じことの繰り返し」と冷ややかに細められる。
だが、ボールがガットに触れるその1ミリ秒の直前。
俺は、全身の力み(テンション)を、水風船が弾けるようにフッと完全に抜いた。
卓球における『ストップ』。
ラケットの面をボールの勢いに逆らわせず、優しく衝撃を吸収する。手首の軋みすら生まれない、極限の脱力。
ポコン。
間抜けな音が響いた。
俺のラケットから放たれたのは、回転もスピードもない、ただのフワフワとした『無回転ボール』。
それが、ネットを越えた直後、セシリアのコートの最前列へとボトリと落ちた。
「なっ……!?」
初めて、氷の女王の顔に「予測外」という動揺が走った。
彼女の美しい数式の中に、あんなにも不格好で、美学の欠片もない軌道は存在していなかったのだ。
セシリアは慌てて前方へとダッシュする。その足音には、先ほどまでの氷を滑るような静寂さはなく、キュッとシューズが床を擦る「人間らしい」摩擦音が混じっていた。
「かかりやがったな、女王様」
俺は、彼女が動くよりも早く、ネット際へと猛然とダッシュしていた。
セシリアが辛うじてボールに追いつき、ラケットを下からすくい上げる。その顔には、完璧なチェス盤を泥靴で踏み荒らされたことへの、明確な『焦り』が浮かんでいた。
ネットを挟んで、わずか数十センチの超近接戦。
俺の鼻腔に、彼女の冷たいミントのような香りと、俺自身の獣のような汗の匂いが混ざり合って届く。
呼吸の同期。
彼女の肺が、予期せぬダッシュによって小さく喘ぐように膨らむ音が、俺の鼓膜を官能的に震わせた。
(見える。お前の『正解』が、手に取るように!)
セシリアのラケットの面が、俺のバックサイドを狙っている。それが理論上の「最適解」だからだ。
俺はその軌道上に、すでに待ち構えていた。
痛む右手首は使わない。左手を添えた体幹のひねり(エッグボールの動作)で生み出した巨大なタメを、今度は回転ではなく、ボールを弾き出す『速度』へと全振りする。
――野生と理論の融合。戦術による『出所の見えない加速』!
パァンッ!!
俺のラケットが、セシリアの返球を完璧に捉えた。
弾き出されたボールは、彼女の顔の横を閃光のようにすり抜け、白磁のコートの対角線へと、誰の目にも追えない速度で突き刺さった。
「……ぁ」
セシリアは、一歩も動けなかった。
ただ、自分の頬を撫でていった一陣の熱い風に、銀糸の髪を揺らされるまま立ち尽くしていた。
『フィフティーン・サーティ……!』
俺は、痙攣する右腕をかばいながら、ネット越しにセシリアを見据えた。
彼女の純白のウェアの胸元が、激しい呼吸で上下している。氷の女王が、初めてコートの上で「熱」を持った瞬間だった。
「息が乱れてるぜ、セシリア」
俺は、歯を見せてニヤリと笑った。
「無駄を削ぎ落として、感情を捨てて、最後に残るのが『勝ち』だけなら、そんなテニスはクソ食らえだ。靴下を間違えるくらい抜けてるから、人間は面白いんだろ」
セシリアの瞳が、わずかに見開かれる。
その奥にあった冷たい氷の壁に、決定的な亀裂が入る音がした。
「……不愉快な熱です。私の盤上を、これ以上汚さないでいただきたい」
彼女は唇を噛み、再びラケットを構え直した。
だが、その瞳に宿っていたのは、機械のような機能美ではない。泥にまみれた俺を前にして、どうしても勝利をもぎ取りたいという、一人のアスリートとしての『生々しい執念』だった。
「上等だ。あんたの氷が全部溶けてなくなるまで、俺の熱を叩き込んでやる」
三強の最後の一人。
その絶対の静寂を破り、俺とリチャードの泥臭い戦術が、ついに氷の城郭へとなだれ込んだ。




