第29話:静寂の天秤、凍てつくチェス盤
第29話:静寂の天秤、凍てつくチェス盤
血管を怒涛のように駆け巡っていたアドレナリンが、急速に冷却されていくのが分かった。
破壊の暴君・バロウが轟音とともに崩れ落ちた直後。粉砕された防球ガラスの破片が白磁の床に散らばる凄惨なコートに、不意に、耳鳴りがするほどの『静寂』が降り立った。
コツ、コツ、という硬質な足音が響く。
「お見事です、新卓駆。あのバロウの絶対的な暴力を、己の肉体という器で飲み込んでみせるとは」
現れたのは、磨き上げられた氷柱のような女だった。
銀糸の髪をタイトにまとめ、一切の無駄を削ぎ落とした純白のウェアを纏う長身の美女。その歩みには大気の揺らぎすらなく、コートに立った瞬間、彼女を中心に空間の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。
異世界の三強、最後の一人。
『静寂の支配者』、セシリア。
「オ……オーゥ! なんという美しさ! 雪山の頂に咲く一輪のエーデルワイス! まさに氷の妖精サ!」
先ほどまで涙と鼻水で顔をぐちゃぐしゃにしていたリチャードが、セシリアを一目見た瞬間、真ん丸の巨体を弾ませて駆け寄った。
セシリアは表情をピクリとも変えず、スッと銀色の小箱を差し出した。
「エリア踏破の労いです。極上の茶菓子をどうぞ」
「サンキュー、妖精さん! 激闘の後のスイーツは英国紳士の……アーン」
リチャードが迷わずピンク色の可愛らしい落雁のような菓子を口に放り込んだ、次の瞬間だった。
「…………ッ!? カハッ、ヒィィィーーーーーッ!!」
リチャードの顔面が、一瞬で茹でダコのように真っ赤に沸騰した。
彼は白目を剥き、首を激しく掻きむしりながら、コート脇のウォータークーラーへダイブする。そして、飲んだ水を口からマーライオンのように勢いよく噴水状に噴き出した。
「ファイヤァァァ!! オーゥ、マイ・タン(舌)が! 舌が地獄の業火に焼かれているヨォォーーッ!!」
「バカッ、何やってんだよリチャード! どう見てもヤバい色してただろそれ!」
噴水を上げながら転げ回る叔父にツッコミを入れつつ、俺はジロリとセシリアを睨みつけた。
「あんた……涼しい顔して、随分とえげつねえモン食わせるじゃねえか」
「氷を溶かすには、劇薬が必要ですから。それに、少し頭を冷やしていただかないと」
セシリアの氷のような双眸が、俺の眼球を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳の奥には、バロウのような他者をねじ伏せる傲慢さはない。ただ、万物をチェス盤の駒としてしか見ていないような、絶対的な『機能美』だけが広がっていた。
「新卓駆。あなたがここへ来た目的は、ケン・ハワードですね」
その名前が出た瞬間、俺の心臓が不自然な拍動を打った。
「彼は今、この空の上の『エターナル・ドーム』で、完全なる数式として君臨しています。……無駄な動きを嫌う彼は、勝つための確率を極限まで高めるために、ついに『人間としてのノイズ』すらも削ぎ落としました」
セシリアの声は、どこまでも平坦で、それゆえに酷く残酷だった。
「彼は勝つために、靴下の左右を履き間違える自由さえ捨てたのです。今の彼には、エラーも、迷いも、そして……テニスを楽しむという感情すら存在しません」
「……あ?」
額から冷たい汗が、ツーッと頬を伝い落ちた。
俺の脳裏に、かつて中学生の頃、ボコボコの庭で一緒にラケットを振ったケンの姿が浮かぶ。
あいつは確かに完璧主義だったが、テニスから離れれば、靴下を左右逆に履いてきても気づかずにヘラヘラ笑うような、どこか抜けた、愛すべき従兄弟だったはずだ。
(あいつが……その『隙』まで捨てちまったってのか……?)
強烈な痛みが、右腕の激痛とは別の場所――胸の奥底を抉った。
悲劇のための悲劇じゃない。あいつはただ、純粋に「テニスの正解」を求めすぎた結果、一人で戻れない冷たい高みへと登り詰めてしまったのだ。
「そんなの……ただの機械じゃねえか」
俺は、痙攣する右腕を左手で支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
ヘラヘラとした笑いは、もう作れなかった。俺の瞳の奥で、従兄弟を取り戻すための、不器用で狂気的な情熱が炎を上げる。
「あいつの『完璧』をぶち壊して、人間らしさ(エラー)を取り戻せるのは、俺の汚えテニスだけだ。……そこを退けよ、氷の女王様」
「……あなたのその火が、彼の数式を溶かすに足るか。私が審査しましょう」
『ワンセットマッチ、セシリア・リザーブ。プレイ!』
審判のコールと同時。
セシリアが、音もなくトスを上げた。
シュッ、という微かな衣擦れの音だけがした。
バロウの『爆音』とは正反対の、真の『沈黙』。
放たれたサーブは、一直線に俺のバックサイドへ向かってくる。俺はバロウ戦で編み出した、全身の連動によるエッグボールの構えに入った。
(力を吸収して、回転でねじ伏せる……!)
俺は迫るボールを迎え撃つべく、下半身のバネを一気に解放した。
だが。
ガットにボールが触れた瞬間、俺は戦慄に目を見開いた。
「……なっ!?」
反発がない。重さもない。
セシリアの打球は、まるで真空の刃のように、俺のラケットの面の上を「滑った」のだ。極限まで磨き上げられた、純度100%のスライス回転。
バロウのように反発する力がないため、俺のエッグボールはエネルギーを吸収できず、空回りしたラケットが虚しく風を切る。
ポスッ、という気の抜けた音と共に、ボールは俺の足元でピタリと止まった。
「フィフティーン・ラブ」
無機質なコール。
俺の心臓が、恐怖に鷲掴みにされた。
「言ったはずです。私は氷だと」
セシリアは、一切の感情を排した顔で、次のボールを手に取った。
「あなたの『野生』は、バロウのような『動』の力には無類の強さを発揮する。ですが、私のような『静』の前では、自らの熱で空回りして自滅するだけです。さあ、どうしますか?」
静かなる絶望。
手首の激痛を抱え、ただ本能と狂気だけで戦ってきた俺の前に、ついに「野生だけでは絶対に勝てない」完全無欠のチェスプレイヤーが立ちはだかった。
俺は荒い息を吐きながら、ベンチで口から火を噴き終え、真剣な眼差しを向けているリチャードを見た。
(野生だけじゃダメだ……。リチャードが教えてくれた、『戦略』を……!)
俺とケンの間を隔てる、最後の門番。
氷の女王との、極限の頭脳戦が幕を開けた。




