第28話:暴君の落日、静寂へのいざない
第28話:暴君の落日、静寂へのいざない
「バカな……! 俺のパワーが、あんな小細工に力負けしただと……!?」
白磁の庭に、バロウの怒号が響き渡る。
だが、その声は先ほどまでの「破壊の暴君」としての絶対的な威圧感を失い、未知の現象に怯える獣のような響きを帯びていた。
後方の防球ガラスは、粉々に砕け散ったままだ。あれだけの物理的破壊をもたらしたのは、他でもないバロウ自身の「力」だ。俺はただ、その巨大なエネルギーをラケットという器で丸飲みし、異常な回転へと変換して叩き返したに過ぎない。
「小細工じゃねえよ。これは、俺の全身全霊だ」
俺は右腕をダラリと下げたまま、左手でラケットのグリップを握り直す。
右手首の奥には、もう「痛み」という感覚すら存在しなかった。切れた腱、軋む骨、熱を持った筋肉。それらがすべて、ただの「支点」として完全に凍りついている。
怖いとは思わない。自分の肉体が壊れていくという事実よりも、今、目の前で最強の暴君のプライドが音を立てて崩れ落ちていく様を視る方が、何百倍も官能的で、心が震えた。
「ハァッ……、ハァッ……」
息を吐くたび、血の味が舌にまとわりつく。
シャツは汗で身体に張り付き、心臓の鼓動が耳の奥で狂ったようなリズムを刻んでいる。
バロウが再びサーブの位置についた。その目には、もはや余裕はない。俺の泥臭いテニスを「汚物」と見下していた冷酷な光は消え、ただ「理解不能な異物」を強引に排除しようとする、焦燥と殺意だけが渦巻いていた。
『フィフティーン・オール、バロウ・リザーブ!』
「死ねェッ!!」
バロウが跳んだ。
さらに大気を圧縮し、白磁の床が沈むほどのパワーを込めた、渾身のサーブ。
ドゴォォォンッ!!
放たれた鉄球は、さっきよりもさらに重く、速い。
だが、俺の眼球は、その暴力の軌道を完璧に捉えていた。
(力めば力むほど……お前の球は『直線的』になるんだよ!)
俺は一歩も引かず、むしろ前へと踏み込む。
右腕は動かさない。左手と体幹の連動だけで、ラケットの面を斜め下から上へと、暴力的な速度で擦り上げる。
ガガガガガァァンッ!!
衝突の瞬間、俺の右肩の関節が、外れる寸前のような不気味な音を立てた。
だが、それ以上の衝撃が、俺の肉体を貫いてボールへと伝播する。バロウの100の力に、俺の全身の捻転が生み出す100の回転が掛け合わさる。
ギィィィンッ!
放たれた第二のエッグボールは、空中で激しく楕円に歪みながら、ネットの向こう側へと舞い上がった。
「また、あのホームラン軌道……!」
バロウが顔を歪める。彼は今度は見送らず、後方へとステップを踏んで落下点に入ろうとした。
しかし、遅い。
「沈めッ!」
俺の咆哮と同時に、ボールは空中でピタリと静止したかのように見え、次の瞬間、滝壺へ落ちるような暴力的な急降下を始めた。
ズドォォォォンッ!!
バロウの足元、ベースラインの角を完璧に抉り取る。
彼が慌ててラケットを出したが、凄まじい反発力によって手首を激しく弾かれ、ラケットはまたしても宙を舞った。
『フィフティーン・サーティ……!』
「オォォーーゥ! カケール! 君は今、世界の物理法則を完全に書き換えているヨ!」
ベンチのリチャードが、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、立ち上がって絶叫している。
「……ハッ。どうした、暴君。お前のパワー、ずいぶんと『軽く』なってきたんじゃねえか?」
俺はヘラヘラと笑いながら、バロウを挑発した。
バロウの巨体が、怒りと屈辱でワナワナと震えている。
彼は、自分が長年信奉してきた「絶対的な力」が、見下していた泥まみれの職人によって完全に無力化された現実を、どうしても受け入れることができないのだ。
力に力で挑めば、壊れる。
だが、力を回転で絡め取れば、相手の力が大きければ大きいほど、こちらの放つエッグボールの威力も跳ね上がる。
俺の肉体は悲鳴を上げているが、心はこれまでにないほど澄み切っていた。
パパン、パパン、と、ラリーが続く。
バロウはなりふり構わず、全てのボールに破壊のパワーを込めて打ち込んでくる。俺はそれを、ただ冷静に、右腕を支点にした体幹の捻転だけで、重厚なエッグボールへと変換し続けた。
ズドォン!
ズドォォン!
白磁の庭に、隕石が落ちるような着弾音が何度も響く。
そのたびに、バロウの体力が、そして「絶対の自信」が、ゴリゴリと削り取られていくのがわかった。
「……クソがっ! なぜだ……なぜ俺のパワーが、こんな……!」
ついに、バロウの膝がガクンと折れた。
彼は荒い息を吐きながら、もはや自分のラケットを支えることすら辛そうにしていた。
力任せのテニスは、己の筋肉をも激しく消耗させる。俺のエッグボールを打ち返すために無理な体勢を強いられ続けた彼の肉体は、すでに限界を迎えていた。
『ゲーム、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!』
審判の涼やかな声が、ついに決着を告げた。
三強の第二の壁、破壊の暴君・バロウの陥落。
「……はぁ、はぁ……」
俺は、その場に仰向けに倒れ込んだ。
全身の筋肉が痙攣し、右腕はまるで熱い鉄の棒のように感覚がない。だが、視界に広がる純白の天井は、どこまでも高く、澄み切って見えた。
「カケール……!」
リチャードが駆け寄ってくる。彼の顔には、もう過去の亡霊に怯える影はなかった。
俺は左手で軽くピースサインを作り、リチャードの顔面に押し付けた。
「……リチャードの仇、取ってやったぜ」
「……あぁ。あぁ、カケール。君は本当に……最高の教え子サ……」
リチャードが、俺の横で大声で泣きじゃくる。
その泣き声を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
三強のうち、二人を撃破。
残るは最後の一人。そして、その先に待つのは――。
(待ってろよ、ケン……)
泥臭い俺のテニスが、あいつの完璧な数式にどこまで通用するのか。
俺の心臓は、右腕の激痛を忘れさせるほどに、熱く、熱く高鳴り続けていた。




