第38話:終わらない熱狂と、新たな挑戦
第38話:終わらない熱狂と、新たな挑戦
消毒液の冷たい匂いが、鼻腔の奥をツンと刺激する。
エターナル・ドームの地下に併設された最新鋭の医療施設。その真っ白なベッドの上で、俺は天井の無機質なLEDライトをぼんやりと見上げていた。
「……信じられないヨ。君の右手首のレントゲン写真、まるで大型ダンプカーに三回連続で轢かれた精密機械みたいな惨状サ」
ベッドの脇で、リチャードが深刻な顔でホログラムのカルテを睨みつけていた。
俺の右腕は、肩から指先まで、特殊な硬質ギプスでミイラのようにガチガチに固められている。もはや痛みすら感じない。神経の伝達が完全にシャットダウンされ、ただそこにある「重い石の塊」のような感覚だった。
「骨の微細骨折に、靭帯の完全断裂。……カケール。君はあのファイナルセットの最後の一球で、テニスプレイヤーとしての右腕の寿命を、文字通り100パーセント使い切ったんだヨ。……もう二度と、あの『魔球』や『エッグボール』は打てない」
リチャードの声が、微かに震えていた。
かつて自身のプロ生命を絶たれた経験を持つ彼にとって、教え子である俺が同じように「腕を壊して終わる」ことは、最大のトラウマだったはずだ。
「……リチャード、そんなしけた顔すんなよ」
俺は、動く方の左手で頭を掻きながら、ヘラヘラと笑ってみせた。
「後悔なんて、一ミリもしてねえよ。あの化け物みたいなケンに勝つには、これしかなかった。……俺の『全部』を叩き込んで、あいつの完璧な数式をぶっ壊せたんだ。安い代償だろ」
強がりじゃない。
骨が砕け、腱が弾け飛ぶあの瞬間、俺の脳髄を焦がしたあの官能的なまでの熱狂。あの一瞬の永遠を味わえただけで、俺の右腕は十分にその役目を全うしたのだ。
「駆の言う通りだ、父さん。彼が全てを懸けてくれなかったら、僕は今でも冷たい氷の中で、ちぐはぐな靴下を履いたまま孤独な数式を解き続けていたはずだからね」
病室の自動ドアが開き、スッと入ってきたのはケンだった。
チャンピオンとしての威厳ではなく、憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな表情。その手には、なぜか巨大な『木彫りの熊』が握られていた。
「……おい、なんだよその熊は」
「見舞いの品だよ。データによると、日本では怪我をした相手に鮭を咥えた熊の木彫りを贈る風習があると聞いてね。父さんがシャケの保冷剤を使っていたから、これでコンボが完成すると思って」
「どんなデータだよ! そんな風習ねえよ! つーか重てえよ、病人に木塊持ってくるな!」
真顔でとんでもない勘違いを披露するケンに、俺は思わずベッドから身を乗り出してツッコミを入れた。
完璧な神様だったくせに、テニス以外の日常生活のポンコツ具合は相変わらずだ。
「オーゥ、ケン! それは私が用意した特製『ワサビとハバネロのロシアンルーレット・マカロン』と一緒にベッドサイドに飾るべきだネ! 激痛で右腕の神経が目覚めるかもしれないヨ!」
「お前ら二人して俺を殺す気か! 頼むから大人しく寝かせてくれ!」
病室に、ドッと騒がしい笑い声が響く。
破壊の暴君・バロウや、氷の女王・セシリアとの死闘が嘘のように、平和でズレた日常のやり取り。だが、そのくだらない時間が、張り詰めていた俺の精神を温かく解きほぐしていくのを感じた。
笑い疲れて一息ついた後、ケンが真剣な瞳で俺を見た。
「……駆。右腕が使えないなら、どうするつもりだ?」
静かな問いかけ。
テニス至上主義のこの異世界において、ラケットを振れないということは、存在意義を失うことに等しい。
「君がテニスを辞めるというなら、止めはしない。だけど……僕はまだ、君との決着がついたとは思っていないんだ」
ケンの言葉に、リチャードも息を呑む。
俺は、ミイラのように固められた右腕を見つめ、それから、自由に動く左手の平をゆっくりと開閉した。
卓球時代から、ずっと右手一本で生きてきた。左手なんて、ボールをトスする時にしか使ったことがない、完全な素人の腕だ。
だが。
俺の網膜の奥で、決して消えることのない、あの『狂気』の炎が再びチリチリと音を立てて燃え上がり始めた。
「……ケンは、本当に諦めが悪いな」
俺は、左手で空のラケットを握る素振りをした。
「右手がダメになったら終わり? 冗談じゃねえ。俺のテニスは、そんな教科書通りの綺麗なモンじゃねえんだよ」
瞳の奥に、一点集中した殺気がじわりと宿る。
「ゼロから最強を作る。……面白えじゃねえか。ボコボコの庭の壁打ちから、もう一回スタートしてやるよ」
「……!」
ケンが目を見開き、そして、本当に嬉しそうに、悪戯な少年のように笑った。
「オーゥ、カケール! その言葉を待っていたヨ! ならば私の特製トレーニングメニューを左手用に再構築しなければ! まずはマグロの解体ショーでの重心移動の訓練からだネ!」
「だから生臭い特訓はやめろっての!」
――それから、三ヶ月後。
始まりの街、グリーンフィールドの陽だまりのコート。
芝の香りが濃く漂うその場所に、俺とケンは立っていた。
「行くぞ、ケン!」
「来い、駆!」
俺の左手には、使い込まれたラケットが握り込まれている。
手首の魔球に頼らない、全身のキネティックチェーンを極めた新たなスタイル。左手から放たれたボールが、芝を刈り取るような鋭い軌道でケンのコートへと突き刺さる。
パァンッ!!
ケンの流麗なステップがそれに追いつき、強烈なストロークを打ち返す。
額から汗が弾け飛び、息が上がり、筋肉が喜びに打ち震える。
不器用で、泥臭くて、最高に熱い俺たちの情熱。
一瞬が永遠に引き延ばされるこの四角いコートの中で、俺たちのスマッシュフロンティアは、まだ始まったばかりだ。




