第3話:消えた天才の足跡
第3話:消えた天才の足跡
「……それで、ケン・ハワードはどこへ行ったんだ」
新卓駆の声は、低く、湿り気を帯びていた。
先ほどまでホログラムのネットを挟んで対峙していた「アーマーの男」たちは、もはやラケットを握る力さえ失い、芝生の上に膝をついている。彼らの自慢だった「洗練されたフォーム」は、駆が放つ予測不能な「トマホーク・サーブ」のうねりに無残に粉砕された。
打球がバウンドするたび、芝が抉れ、物理法則を嘲笑うような回転が空気を切り裂く。その光景は、彼らが信奉する「テニスの正解」には存在しない異形の暴力だった。
「言ったはずだ……。やつは『特例』だ。このグリーンフィールドのエリア・マスターですら、あのアウトサイド・インの軌道には一歩も動けなかった……」
リーダー格の男が、震える指で空中にホログラムの端末を展開した。そこには、この世界の「TP」に基づいたリアルタイム・ランキングが表示されている。
「見ろ。ケン・ハワード。転移からわずか数時間で、初期ランクの最底辺から一気に20位をまくり上げ、今は『摩天楼の尖塔』への通行許可を得ている」
駆の視界に、ケンの名前が焼き付く。
ランキング表の中で、その名だけが異質な輝きを放っていた。まるで、最初からそこに座るのが当然であるかのように。
「スカイハイ・シティ……」
駆は、ラケットを握る右手の感覚を確かめた。
手首の腱が、細いピアノ線のようにピンと張り詰め、微かな熱を放っている。卓球部時代、一日に何千回と繰り返した「手首の返し」。その極小の連動が、テニスの重いボールを叩くたびに、骨の芯に贅沢なまでの痺れを運んでくる。
壊れるのが先か、届くのが先か。
そんな危うい予感が、駆の胸を熱く焦がした。
「オーゥ、カケール。感傷に浸るのはそこまでだ。まずはこの、無残に散った中トロたちの供養(換金)を済ませなくては」
リチャードが、崩れた寿司の桶を大事そうに抱えながら割って入った。
彼は先ほどの男たちから巻き上げた「TP」を、自分のデバイスへと移し替えている。その手つきは、かつてのプロ選手というよりは、海千山千の相場師のようだ。
「リチャード、のんびりしてる暇はねーぞ。あいつ、どんどん先に行っちまう」
「分かっているよ。でもね、空腹でコートに立つのは英国紳士のすることじゃない。……それに見てごらん、あの街の門を」
リチャードが指差した先。
穏やかなグリーンフィールドの地平線に、不自然なほど巨大な、雲を突き抜けるような影がそびえ立っていた。
「あれが、次のエリア……『スカイハイ・シティ』だ。ここより酸素は薄く、太陽は近い。……ケンのような『理論の完成者』にとっては、物理法則が安定した最高の実験室だろうが、君のような『野良犬』には、少々息苦しい場所になるかもしれないね」
「……上等だ。空気が薄かろうが、地面がひび割れてなかろうが、俺の魔球が通用することを教えてやる」
駆は、男たちから奪い取った「TP」が刻まれたリストバンドを、乱暴に締め直した。
その時。
去り際のアーマーの男が、呪詛を吐くように呟いた。
「無駄だ……。お前のような汚いテニスじゃ、あいつの『美学』には触れることさえできない。ケン・ハワードは、既にこの世界の王にさえ注目されているんだからな……」
駆の瞳の奥に、漆黒の狂気が再燃する。
恐怖はない。あるのは、自分だけが知っている「ケンの隙」を、世界中の奴らに見せつけてやりたいという、独占欲にも似た情熱だ。
「リチャード。寿司の換金が終わったら、すぐに発つぞ」
「オーゥ……せっかちだねぇ。まあ、この街の『異世界ギルド』とやらに、ケンが残した戦術データ(ギルドログ)があるらしい。それを覗いてからでも遅くはない」
駆は、碧く透き通った空を見上げた。
この空のずっと先、見上げる首筋が痛くなるほどの高みに、あいつはいる。
待ってろ、ケン。
お前の綺麗な数式を、俺の泥臭い指先で、ぐちゃぐちゃに書き換えてやる。
不器用な情熱を乗せた駆の足跡が、完璧に手入れされた芝生を力強く踏み締めた。
それは、異世界の秩序を揺るがす「カオス」が、本格的に進撃を開始した合図だった。




