第2話:境界の消失
第2話:境界の消失
肺の腑が、震えていた。
空気が甘い。現実世界の排気混じりの酸素ではなく、若草の呼吸をそのまま吸い込んだような、眩暈のするほどの純粋な「生」の匂いだ。
新卓駆は、芝の柔らかさに戸惑いながら立ち上がった。指先にはまだ、転移の瞬間に掴み損ねた光の熱がこびりついている。
「オーゥ……なんてことだ。中トロが、私の愛する中トロが……」
傍らでリチャードが絶望の声を上げていた。手元にある寿司の桶は無事だったが、その中身はあまりにも無惨だった。重力と空間の歪みに翻弄されたのか、シャリとネタは離れ、まるでイレギュラーバウンドしたボールのように散乱している。
「寿司なんてどうでもいいだろ! ケンだよ、ケン! あいつ、どこに消えやがったんだ!」
駆の怒鳴り声に、リチャードは贅肉を揺らしながら顔を上げた。その鋭い眼光は、数秒前までの陽気なおデブさんのものではない。かつてウィンブルドンの風を肌で知った、勝負師の眼だ。
「……落ち着きなさい、カケール。ここは我々の知る場所ではない。だが、この空気の震え……聴こえるかい?」
リチャードが耳を澄ませた先。地平線の彼方から、重低音のような地鳴りが響いてくる。それは数万人の観衆が発する熱狂の余波。そして、乾いた、しかし重厚な「パンッ」という打球音。
「テニス……。狂ってやがるな、この場所」
駆は自らの右手を凝視した。卓球で培い、ボコボコの庭で研ぎ澄ませた職人的な指先。腱がピアノ線のように張り詰め、わずかな風の抵抗さえも「回転」に変えようと欲している。
その時だった。
「おい、そこの異邦人。不法入国か?」
背後から、低く、威圧的な声がした。振り返ると、そこには近未来的な白いアーマーを纏った男たちが立っていた。腰にはラケットケースのようなデバイス。
「ケンってハーフのイケメンを見なかったか? 」
駆が食ってかかると、男たちは鼻で笑い、手元のホログラムパネルを操作した。
「ケン・ハワードか。その名なら既に『全エリア告知』に載っている。……信じられんことだが、やつは転移直後、このグリーンフィールドの門番をわずか十分で粉砕した。その圧倒的な『理論』と『美学』。……やつは今、特例挑戦者として、既に上位エリアへ強制連行されているよ」
「……何だと?」
駆の心臓が、跳ねた。
焦燥か、あるいは歓喜か。
ケンは既に、この世界の階段を駆け上がり始めている。
「今のランキングは……ふん、既に下位から20位も一気にまくっているな。まさに新星だ。だが、お前のような泥臭い野良犬に用はない。ここから先は『テニスポイント(TP)』を持たぬ者の立ち入りは禁じられている」
「ティー、ピー……?」
リチャードが、男たちの隙を突くように前に出た。
「ボーイズ、落ち着きたまえ。ポイントがないなら、今ここで稼げばいい。そうだね、カケール?」
リチャードの手には、無残に崩れた中トロが一貫、握られていた。
「この寿司一貫と、私の甥っ子が君たちの『理屈』を黙らせる権利……賭けないかい?」
「ふん、笑わせる。いいだろう、スプリント形式で相手をしてやる」
簡易的なネットがホログラムで投影され、鮮やかなグリーンが「戦場」へと変貌する。
駆はラケットを握り直した。
手首の腱が、歓喜に震える。
相手は教科書通りの、洗練されたフォーム。無駄のない、しかし「正解」しか持たないテニス。
「……ケン。お前はもう、先に行っちまったんだな」
駆の一点を見据えるその瞳に、漆黒の「狂気」が宿る。
「けどよ、あんな綺麗なコートで育ったお前のテニスじゃ、この世界の『毒』は喰らい尽くせねえ。……俺が、その喉元に食らいついて、引きずり戻してやる」
駆が放った第一球。
それは、卓球の「トマホークサーブ」をテニスサイズに膨張させた、歪な放物線。
ネットを越えた瞬間、打球はあり得ない角度で「くの字」に折れ、芝の上で死んだ魚のように沈んだ。
「なっ……イレギュラー……!? 芝の上で何故!」
「……悪いな。俺の庭じゃ、これが『正解』なんだわ」
圧倒的な熱量。
不器用な情熱が、異世界の秩序を初めて汚した瞬間だった。
駆は確信する。
この世界のどこかで、ケンもまた、左右逆の靴下を履いたまま、孤独な「数式」を解き続けているはずだと。
「リチャード! 寿司は対価に変えておけ! ケンを追うぞ!」
「カケール、焦るんじゃない。まずはこの街の『寿司』を調査してからだ!」
果たしてケンは、どこへ行ってしまったのか。




