スマッシュフロンティア 第1話:泥を噛む指先
第1話:泥を噛む指先
その庭は、およそ「スポーツ」を志す者の環境ではなかった。
埼玉県某所。新卓駆の自宅裏庭は、ひび割れたコンクリートと剥き出しの赤土が不規則に混じり合う、最悪のイレギュラーバウンド地帯だ。
「……ふっ、……はっ!」
駆の呼吸は、肺の奥を焦がすような熱を帯びていた。握っているのは、卓球のラケットではない。重厚な硬式テニスのラケットだ。だが、その扱いはあまりに異質だった。
中学三年間、卓球部。誰よりも速く、鋭い「前陣速攻」を極めた手首の返し。彼はその「ミリ単位の微操作」を、テニスの巨大なラケットにそのまま流用していた。
壁に叩きつけられたボールが、ひび割れた段差に当たり、真上へと跳ね上がる。普通のプレイヤーなら見送るしかない、理不尽な「事故」のような一球。
だが、駆の瞳に宿る狂気は、それを逃さない。
「捕まえた……!」
刹那、駆の肉体がしなる。右腕の筋肉が、限界まで圧縮されたバネのように収縮し、インパクトの瞬間に爆発した。
グニャリ、と。
テニスボールという硬質な物体が、まるで柔らかい粘土であるかのようにラケットの上で拉げた。物理的な接触時間を、手首を捏ねる操作によって強引に引き延ばす。卓球仕込みのえげつないスピン。
放たれた打球は、ネットを越えた想定の低さからさらに沈み込み、バウンドした瞬間、重力を嘲笑うように横へと鋭く滑った。
それは「テニスの教科書」には決して載っていない、泥臭く、しかし研ぎ澄まされた職人的な「殺意」の軌道。
「Hey! カケール! まーだやってるのかい? 寿司、買ってきたよ! 脂の乗った中トロがアナタを呼んでる!」
陽気な、しかし重厚なバリトンボイスが響く。叔父のリチャード・ハワードだ。かつて英国の芝を沸かせたセミプロの面影は、今や日本食への愛ゆえの贅肉の下に隠れている。
リチャードの隣には、駆と同い年の従兄、ケン・ハワードが立っていた。
ケンの立ち姿は、それだけで一枚の絵画のように完成されていた。無駄のないしなやかな筋肉、静かな呼吸。ハーフ特有の端正な顔立ちは、常に「正解」だけを見据えている。
「駆、その打ち方は手首を壊すよ。テニスはメカニズムだ。僕は君が壊れるところを見たくない。それに……その不規則なバウンドに対応することに、テニスの本質はない」
ケンの声は冷徹なほどに透き通っていた。彼にとってテニスは、解かれるべき美しい数式だ。駆はラケットを肩に担ぎ、ニカッと笑った。
「つまんねーこと言ってんなよケン。俺はさ、『絶対ねえだろ』ってところからボールが飛んでくるのが、たまらなく好きなんだわ」
「バカだね。予測できない事象を排除するのが勝負だよ」
その言葉は、まるでフラグを立てるかのように響いた。駆が言い返そうとした瞬間、世界から一切の音が消えた。
突如として視界が白濁し、コンクリートの照り返しが空間そのものを歪め始める。
「なんだ……!? 眩しい、クソッ!」
肉体が引きちぎられるような感覚。骨が軋み、肺の中の空気が一気に真空へと吸い出されるような、肺腑を抉る苦悶。
「駆! 離れるな!」
ケンの叫びが、耳元ではなく、奈落の底から響くように遠ざかっていく。駆は必死に手を伸ばしたが、指先が触れたのは、冷たい金属的な光の奔流だけだった。
永遠のようにも、一瞬のようにも感じられる静寂の後、駆の鼻腔を突いたのは……圧倒的な、むせるような「芝」の香りだった。
目を開けた先には、見たこともないほどに透き通った碧色の空と、地平線の彼方まで続く完璧なグリーンが広がっていた。足元にあるのは、ひび割れたコンクリートではない。短く刈り込まれ、生命力に満ちた、どこまでも鮮やかな天然芝だ。
「……カケール、生きてるかい?」
横で呻き声を上げたのは、リチャードだった。彼は寿司の桶を抱えたまま、尻餅をついている。しかし、その顔は青白い。
「リチャード! ケンは!? アイツはどこだ!」
駆が辺りを見渡すが、そこには風にそよぐ芝生があるだけだ。ケンの姿は、影も形もない。
「オーゥ……なんてことだ。ケンがいなーい! マイ・サン! どこへ行ったんだい!?」
リチャードの悲鳴が、静かな草原に虚しく響く。駆は地面を拳で叩いた。あの「正解」しか選ばない従兄が、自分たちとはぐれてしまった。
「あいつ……一人で大丈夫かよ。あんな理屈っぽい奴、この変な世界じゃ真っ先に迷子になるんじゃねーか?」
駆の胸に、焦燥と、それ以上に激しい「熱」が込み上げる。
遠くから聞こえるのは、数万の人間が熱狂するような地鳴りと、硬質なボールが弾ける「打球音」。どうやらこの世界は、自分たちが知る世界よりもはるかにテニスという「勝負」に狂っている。
「探してやるよ。ケンを見つけ出して、リチャードの前に連れてくる。ついでに……俺のこの『歪なテニス』が、あいつの完璧な理論より強ぇってことを、この世界で証明してやる!」
駆は汚れた手首をギュッと握りしめた。
はぐれた天才ライバルを探す旅。それが、泥臭い野犬・新卓駆の、異世界での最初のサーブとなった。
果たしてケンはどこへ消えたのか? そしてリチャードの寿司の運命は!?




