第26話:暴君の鉄槌、砕け散る牙
第26話:暴君の鉄槌、砕け散る牙
『ワンセットマッチ、バロウ・リザーブ。プレイ!』
審判のコールが、張り詰めた白磁の庭に響き渡る。
だが、その声の余韻すら待たず、バロウの巨体が動いた。いや、「動いた」という生易しい表現ではない。まるで圧縮された火薬が爆発したかのような、暴力的で理不尽な初速だった。
ドゴォォォンッ!!
ボールがラケットに当たった音ではない。それは、大気が強引に圧殺され、悲鳴を上げた音だった。
アイザックのサーブが「空から降り注ぐ杭」だとするなら、バロウの放ったサーブは、質量を持った「鉄球」そのものだ。
(……見えねえッ!?)
俺の野生のフットワークが、反応すら許されなかった。
黄色い残像ではなく、黒く塗り潰された弾丸が、俺の足元のコートを削り取るような勢いでバウンドし、あっという間に後方の壁へと激突する。
パキン、と。
絶対に傷がつかないはずの白磁の壁に、クモの巣状のヒビが入った。
「フィフティーン・ラブ」
審判の声が、わずかに震えている。
俺は、自分が一歩も動けなかった事実と、その常軌を逸した破壊力を前にして、額からどっと冷たい汗が噴き出すのを感じた。
「どうした、泥犬。口ほどにもないな。俺の暴力の前では、お前の小細工などただの紙屑だ」
バロウは、自らの筋肉の塊のような右腕をゆっくりと回しながら、傲慢に笑った。
彼のハッキングは、慎吾のようなデータ分析や、メイリンのような心理の誘導ではない。ただ単純に、『お前の武器など何の意味もない』と、存在そのものを暴力で踏みにじることだった。
「……ッ、舐めんじゃねえよ!」
俺はヘラヘラした仮面をかなぐり捨て、強引に前へと踏み込んだ。
次弾。再び放たれた鉄球のようなサーブ。
今度は、見えた。毛穴で空気の震えを感知し、卓球仕込みの前陣速攻で、ボールがバウンドするその瞬間を無理やり捉えにいく。
手首の激痛を「照準器」として限界までねじり、俺の全てを込めた『魔球リターン』を放つ。
ガガァンッ!!
――だが。
ラケットがボールに触れた瞬間、俺の右手首から、これまでとは全く違う、最悪の音が鳴った。
ブチッ。
何かの繊維が、決定的に千切れる音。
「――ぁ、ああああああああっ!!」
俺の口から、無様な悲鳴が漏れた。
バロウの打球の「重さ」は、俺の魔球の回転量などを遥かに凌駕していた。ミリ単位の緻密な回転など、この巨大な鉄の塊の前では、ただの小石がダンプカーに轢き潰されるようなものだ。
俺のラケットは、ボールを弾き返すどころか、その重みに完全に押し負け、手首ごと後ろへと弾き飛ばされた。
ガラン、と。
俺の手からすっぽ抜けたラケットが、白磁の床に虚しく転がる。
「カケール!!」
リチャードの絶叫が、アリーナに響き渡った。
俺は右手首を押さえ、その場にうずくまった。痛い。痛いなんてもんじゃない。右腕の肘から先が、自分のものではない別の生き物になって、火の海でのたうち回っているような感覚だ。
「……脆いな。お前の師匠と同じだ。力に力で挑もうとするから、そうやって無様に壊れる」
バロウが、俺を見下ろして冷酷に笑う。
「リチャード、お前は本当に何も学んでいないようだな。自分が壊された時と同じように、また才能ある若者を潰す気か? お前の教える『戦い方』とやらが、このザマだ」
その言葉は、俺への侮蔑ではなく、リチャードへの最大の刃だった。
俺は痛みに呻きながら、視界の端でリチャードを見た。いつも陽気な彼が、今、血の気を失い、過去の亡霊に囚われたようにガタガタと震えている。
「ち……がう……」
俺は、痙攣する右腕を左手で強引に押さえつけながら、ゆっくりと立ち上がった。
「カケール、もうダメだ! やめるんだ、これ以上やったら本当に右腕が――」
「うるせえっ!!」
俺の咆哮が、リチャードの言葉を遮った。
滴る汗が、眼球を赤く染める。
「俺が負けたのは、リチャードの教えが間違ってたからじゃねえ。……俺が、俺自身のテニスを、まだ信じ切れてなかったからだ」
そうだ。
俺はずっと、力には力で、回転には回転で対抗しようとしていた。手首をこねて、強引にボールをねじ伏せようとしていた。それは、俺がボコボコの庭で一人で壁打ちをしていた時の、「自分の力だけでなんとかしようとする」狭いテニスのままだ。
リチャードが教えてくれたのは、そんな不器用な自己犠牲じゃない。
相手の力を利用し、戦局全体を俯瞰する『面のテニス(タクティクス)』だ。
「……デカブツ。お前の暴力、確かに重てえよ。でもな、重いってことは、それだけ『利用できる力』がいっぱい詰まってるってことだ」
俺は左手で、床に転がったラケットを拾い上げた。
右手はもう、まともにラケットを振ることすらできない。だが、握ることだけなら、まだギリギリできる。
俺は、右手首を「一切動かさない支点」として完全にロックした。
手首をこねる『魔球』を、完全に封印する。
その代わりに、下半身のバネ、体幹の捻転、そして――左手の添え手をフル活用した、全身の連動だけでボールを押し出す、全く新しい構えを取った。
「なんだ、その不恰好な構えは。まだやるというのか」
バロウが不快そうに眉をひそめる。
「……来いよ、暴君。今度は、手首の小細工なんか使わねえ。俺の『全部』で、お前の暴力を丸のみにしてやる」
手首の痛みを、俺は脳内で「爆発のトリガー」へと変換する。
俺の瞳の奥で、狂気的な殺気と、極限の理性が、初めて完全に融合し始めていた。
破壊の暴君との、本当の死闘が、ここから始まる。




