第25話:暴君の足音と、過去の亡霊
第25話:暴君の足音と、過去の亡霊
「はぁ……はぁ……」
白磁の庭に、俺の荒い呼吸だけが不格好に響き渡る。
汗が、一点の曇りもない鏡のようなコートにぽたぽたと落ち、醜い染みを作っていく。だが、その一滴一滴が、俺がこの無機質な空間に刻み込んだ確かな「生存の証」だった。
「……私の、負けね」
ネットの向こう側。凛は自分のラケットを見つめた後、ふっと憑き物が落ちたような、本来の年齢相応の柔らかな笑みを浮かべた。
彼女の脚力を完全に無効化する、極限のサイドスピンを用いたアングルショット。手首の靭帯を直接削り取るような劇薬だったが、その代償に見合うだけの絶望を、俺は『疾風の壁』に与えることができたのだ。
『ゲーム、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!』
審判の涼やかな声が、アリーナに響く。
三強の一角を崩した。その事実が、焼け焦げたように痛む右手首の奥で、確かな熱量となって俺の胸を焦がす。
「カケール! オーゥ、ワンダフル! 今のコース、私が現役時代に夢にまで見た究極のアングルだヨ! 君の手首はまさに神が与えし――」
リチャードが、白磁の床をペンギンのようにツルツルと滑りながら駆け寄ってこようとした、その時だった。
――ドスン。
白磁の庭が、文字通り「地震」のように揺れた。
いや、物理的な揺れではない。空気が一瞬にして凍りつき、肺の中の酸素が強制的に圧縮されたような、圧倒的な質量の圧迫感だった。
「……ッ!」
俺は反射的に振り返った。
前室の奥、光が届かない闇の中から、ぬるりと現れた巨大な影。
身長二メートル近いアイザックとは、異質のデカさだった。横幅、骨格の厚み、そして何より、周囲の空間そのものを歪ませるほどの、筋肉の異常な『密度』。
歩く重戦車――いや、災厄そのもの。
俺の隣で、リチャードが息を呑む音が聞こえた。
いつも陽気で、どんな絶地でも冗談を忘れない叔父の顔から、一切の血の気が引き、唇がガタガタと震えている。
「バ、ロウ……」
リチャードの掠れた声。
その名前を聞いた瞬間、俺の脳裏に、数日前のシェルターでの会話がフラッシュバックした。
『伝統的なサーブ&ボレーを愛した私もね、かつて圧倒的なパワーに直面した時、力には力だと、肉体の限界を超えてラケットを振り続けた。……結果は、このザマサ。プロの道は閉ざされ、いまやただのおデブさんだネ』
叔父の夢を、そしてテニス選手としての命を完全に断ち切った、理不尽なまでの暴力。
テニスという競技の枠を破壊する、フィジカルの独裁者が、今、俺の目の前に立っていた。
「久しぶりだな、リチャード。ずいぶんと醜く太ったな。俺のテニスに心を折られて逃げ出した敗北者の末路としては、お似合いの姿だ」
破壊の暴君・バロウ。
彼が口を開くたびに、大気が震えるような重低音が鼓膜を打つ。彼は、怯えるリチャードを一瞥した後、その視線を俺の右手首へと――どす黒く汚れ、悲鳴を上げているテーピングへと、冷酷に滑らせた。
「そしてそこのガキ。お前のその手首……もう限界だな。いいぜ、俺がこのコートで、お前の師匠と同じように『完全な絶望』を味わわせてやるよ」
強烈な殺気が、鏡のコートを支配する。
「……へっ、言ってくれるじゃねえか。デカブツ」
俺は、震えそうになる膝を強引に押さえ込み、ヘラヘラとしたいつもの笑いを顔に張り付けた。
右手首の奥で、ガラスの破片が『今すぐ逃げろ』と警告するように、ギリギリと神経を削っている。
だが、逃げるわけにはいかない。
こいつは、リチャードの過去の亡霊だ。俺がここでこいつを越えなければ、叔父はずっと、あの日折られたラケットの破片を胸に抱えたまま生きていくことになる。
「俺のテニスは、おっさんのサーブ&ボレーよりも、もっと泥臭くて汚えぞ。お前のその暴力、丸ごと飲み込んでやるよ」
「……ほざけ。俺のパワーの前では、どんな小細工も粉砕されるだけだ」
バロウが、ゆっくりとコートへ足を踏み入れた。
彼が歩くたびに、絶対に傷がつかないはずの白磁の床が、ミシミシと悲鳴を上げているように錯覚する。
三強の第二の壁。
理論も、戦術も、全てを『無意味』と切り捨てる、絶対的なフィジカルの暴力。
俺は、限界を超えた右手首に、改めて殺気と狂気を込め、ラケットを強く握り直した。
リチャードの過去の呪縛と、俺自身の肉体の限界。
すべてを懸けた、破滅へのカウントダウンが、今、静かに始まろうとしていた。




