第24話:無垢なる疾風と、純白の絶望
第24話:無垢なる疾風と、純白の絶望
ゲートを抜けた先は、網膜が焼き切れるほどの「純白」だった。
最高峰の強者たち、異世界の三強が君臨する聖域の最下層――『白磁の庭』。
そこには、コア・メトロポリスの灼熱も、ミスト・フォレストの重い湿気も、断崖の暴風も存在しなかった。温度、湿度、気流、すべてがテニスのためだけに完璧に管理された、無菌室のような空間。
足元のサーフェスは、一点の曇りもなく磨き上げられた純白の特殊樹脂だ。
「オーゥ、ホーリー・シット! ツルツル滑るヨ! カケール、助けてクレ、私が巨大なカーリングの石になってしまうゥゥーッ!」
ゲートを意気揚々とくぐったリチャードが、最初の一歩で見事に足を滑らせた。
摩擦係数ゼロかと思えるほど磨かれた床の上を、真ん丸の巨体が「スゥーッ」と音もなく滑っていく。俺は慌ててそのジャージの襟首を掴み、間一髪でストップをかけた。
「ふざけてる場合か! ……けど、なんだよこのコートは」
俺はシューズの裏で、白磁の床をキュッと鳴らした。
異常だ。イレギュラーバウンドなど、万に一つも起こり得ない。俺がこれまで武器にしてきた「環境のバグ」や「悪条件」が、ここでは一切通用しない。言い訳が1ミリも存在しない、純粋な実力だけが計られる残酷な箱庭。
「ようこそ、泥だらけの挑戦者さん。あなたが新卓駆ね」
重力を感じさせない、羽毛のような声が上空から降ってきた。
音もなくコートに降り立ったのは、白とペールブルーのウェアを爽やかに着こなした小柄な少女。三強の第一の壁、『疾風の壁』こと凛だった。
彼女の足元には、微かなホコリすら舞わない。
「ケンから聞いてるわ。すごく変なテニスをするって。でも残念ね。このコートは完璧な鏡。ボールは、打った分のエネルギーで、まっすぐにしか跳ねないの。泥臭い奇跡は起きないわ」
「……へっ。奇跡なんて、最初からアテにしちゃいねえよ」
俺は微笑の仮面の下で、奥歯を強く噛み締めた。
三強が放つプレッシャーは、これまでのエリア・マスターたちとは次元が違う。彼女はただ微笑んでいるだけなのに、その存在自体が「お前の不格好なテニスは、ここではただの汚物だ」と宣告しているようだった。
『ワンセットマッチ、凛・リザーブ。プレイ!』
審判の涼やかな声とともに、凛がサーブを放つ。
速い。だが、見えない速度じゃない。
俺は仮想指導で徹底的に身体に叩き込んだ、下半身と体幹の連動を起動させた。
(手首だけに頼るな。股関節のタメを、体幹の捻転で腕に伝えろ……!)
右手の負担を極限まで減らしつつ、ボールの上がり端を強烈に叩く。
ズパァン!
弾き出された俺のリターンは、過去最速の『出所の見えない加速』となって、凛のコートの深いコーナーへと突き刺さった。
完璧な一撃。決まった。
――そう、俺の脳が「達成感」を感じた瞬間だった。
「わあ、いいコースね!」
シュバッ!
風の音すらしなかった。
俺がラケットを振り抜いた直後、凛はすでにボールの落下点にいた。まるで空間をスキップしたかのような、圧倒的で絶対的な『スピード』。
彼女は涼しい笑顔のまま、俺の渾身のクイックショットを、いともたやすくコンパクトなスイングで弾き返した。
「なっ……!?」
俺は慌ててステップを踏み、強引にボールを逆サイドへ打ち込む。
だが、右へ打っても、左へ打っても、凛は呼吸一つ乱さずにそこに「いる」。
彼女のテニスには、予測も読心もない。ただ、ボールが放たれてから動いても「追いついてしまう」という、天性の脚力という名の暴力だった。
「どうしたの? もっと速く打たないと、終わらないわよ?」
パパン、パパンと、無機質なラリーが続く。
凛の言葉には一切の悪気がない。無邪気なその笑顔が、俺の精神を確実に削り取っていく。
どれだけ完璧なタイミングで、どれだけ最速の魔球を放っても、必ず返ってくる。俺が骨を軋ませ、命を削って放つ一撃が、彼女にとってはただの「子供の遊び」でしかない。
一撃という概念の全否定。
これこそが、彼女の仕掛ける心理の罠だ。
「ハァッ……、ハァッ……!」
俺の額から噴き出した重い汗が、純白のコートにポタポタと落ち、無残な黒い染みを作っていく。
対照的に、ネットの向こうの凛は、一滴の汗も流していない。彼女の肺が酸素を取り込む音は、小鳥のさえずりのように静かだった。
(クソッ……このままじゃ、ジリ貧だ……!)
仮想空間で手に入れた下半身の連動をもってしても、今の俺の右手首には『ガラスの破片』が刺さったままだ。
打つたびに、腱がピアノ線のように引き絞られ、キチキチと不穏な悲鳴を上げている。この終わらないラリーを続ければ、確実に俺の腕は限界を迎える。
「カケール! 彼女とスピード勝負をしてはいけない! 速さは彼女の領域サ!」
ベンチのリチャードの悲痛な声が、白磁の庭に反響する。
スピードが通用しない。パワーでも抜けない。なら、どうする?
俺の網膜の奥に、ケン・ハワードの冷徹な背中がフラッシュバックした。
あいつもきっと、こんなふうに涼しい顔で、相手の心をへし折っていくんだろう。
だったら――。
「……アハ、ハ……面白えじゃねえか」
俺は、滴る汗を手の甲で拭い、狂気的な笑みを浮かべた。
スピードで追いつかれるなら、追いつけない場所へボールを運べばいい。
どんなに足が速かろうが、コートの外へ逃げていくボールには、物理的にラケットが届かない。
俺は、仮想指導の『慎吾』から盗んだ、フォームからコースを読ませない肩甲骨のタメを作った。
そして、ボールが手元に迫った瞬間、手首の激痛を「照準器」として脳内で強引に変換し、ラケットの面を異常な角度に寝かせる。
強くは打たない。
ただ、ボールの側面のフェルトを、剃刀の刃で削り取るように極限のサイドスピンをかける。
キィィン……!
右手首の奥で、金属がねじ切れるような悲鳴が鳴った。
視界が白く飛ぶ。だが、俺のラケットから放たれたボールは、ネットを越えた瞬間、前への推進力を捨てて「真横」へと急激に折れ曲がった。
「えっ……?」
凛の無邪気な笑顔が、初めて驚愕に凍りついた。
鋭角。
ベースラインではなく、サイドラインのネット際を鋭く割り、コートの遥か外側へと逃げていく軌跡。
凛が風のように飛びつくが、彼女のラケットの先端を数センチすり抜け、ボールは白磁の壁へと激突した。
「……私の足が、届かない……?」
凛が、信じられないというように虚空を掻いた自分の手を見つめる。
「はぁ……はぁ……。言ったろ、奇跡はアテにしないって。……コートの外までは、走れねえだろ、お嬢様」
痛む右手首を庇いながら、俺は不敵に笑い返した。
純白の絶望に、俺の泥臭い『角度』が、初めて明確なヒビを入れた瞬間だった。




