第23話:泥濘の休息、仮想の師たち
第23話:泥濘の休息、仮想の師たち
右手首の奥に、「異物」が住み着いている。
骨と腱が交差する緻密な歯車の隙間に、冷たくて鋭い『ガラスの破片』が挟まっているような感覚。指を微かに動かそうとするだけで、前腕の筋肉が乗ったピアノ線がキチキチと悲鳴を上げ、脳髄に嫌な汗をかかせた。
「オーゥ、カケール。君のその手首、もう気合や根性でどうにかなるレベルじゃないヨ。特別に、私の秘蔵アイテムを貸してあげよう」
絶望の断崖を越え、俺たちが拠点としているシェルターの一室で、リチャードが真顔で取り出したのは、なぜか『シャケの切り身』の形をした巨大な保冷剤だった。
「深海魚の成分を抽出した特製冷却ジェルサ。これを手首に巻いて絶対安静。君の腕は新鮮なサーモンのようにピチピチに戻るネ! そしてこれは栄養満点のスッポン・プロテイン・スムージーだヨ!」
「冗談きついぜリチャード。生臭えし、なにより見た目が狂いすぎてる。つーかスムージーの色が完全にドブの泥だろ……」
ふざけた見た目のシャケを腕に巻きつけながら、俺は短く息を吐いた。
笑えない状況だった。真壁との死闘で『手首の解放』を強引に撃った代償は、肉体の限界値を完全に超えていた。次に無茶なスイングをすれば、このガラスの破片が完全に腱を断ち切るだろう。
だからこそ、俺は現在、ラケットを握ることを固く禁じられ、もどかしい「治療と休息」の時間を余儀なくされていた。
「休むこともトレーニング。分かってるサ、カケール。だが、ただ寝転がっているだけが休息じゃない」
リチャードがシェルターの端末を操作すると、部屋の空間が微かに歪み、青白い光の粒子が空中に舞った。
『――称号確認。五つのエリア・マスターの撃破を承認。仮想指導システムを起動します』
無機質な電子音とともに、部屋の四方に、これまで死闘を繰り広げてきた五人のエリア・マスターたちの立体ホログラムが浮かび上がった。
低く地を這うような姿勢の柴田。
長身から冷徹に見下ろすアイザック。
しなやかな肢体を躍動させるメイリン。
計算し尽くされた軌道を描く慎吾。
そして、岩のように微動だにしない真壁。
「このシステムは、彼らの専門スキルを君の脳と肉体に直接叩き込むためのものサ。右腕は使わなくていい。下半身と体幹だけで、彼らのテニスを『追体験』するんだヨ」
俺は立ち上がり、シャケの保冷剤で固定された右腕を胸に抱いたまま、光の粒子が形作る仮想のコートへ足を踏み入れた。
シュバッ!
ホログラムの柴田が放つ仮想のボールが、足元を滑る。
俺は卓球の「しゃがみ込み」を応用し、右腕を振らずに、極限まで腰を落としてボールの上がり端に身体を合わせる。膝の裏側で筋肉の繊維がピキピキと引き伸ばされ、悲鳴を上げるのがわかる。だが、打点の高さを合わせるその重心移動の感覚を、細胞の一つ一つに刻み込む。
続いて、アイザックの仮想サーブが天から降り注ぐ。
俺は視線を真上へ振り上げ、薄い空気の中で肺が爆ぜるような感覚を思い出しながら、強烈な回転を相殺するためのステップを踏む。
メイリンのドロップショットには、前陣速攻のダッシュ力で空間を切り裂く。
慎吾の冷徹な配球には、フォームからコースを読ませないための肩甲骨のひねりで応じ、真壁の終わらないロブには、ここぞという時の決定打を叩き込むための、ミリ秒の「タメ」を全身で作る。
「ハァッ……ハァッ……!」
ラケットすら振っていないのに、全身の毛穴という毛穴から重い汗が噴き出し、床に黒い染みを作っていく。
ただのステップ。ただのシャドウ。
だが、俺の脳内では、一瞬が永遠のように引き延ばされ、彼らとの死闘が官能的なまでのリアリティを持って再生されていた。
卓球の小さな台で培った俺の野生が、五人のマスターたちの技術という「規格」を通し、広大なテニスコートのサイズへと無理やり引き伸ばされ、強制的にスケールアップさせられていく。
筋肉が熱を帯び、汗がシャツの繊維を重くする。
右腕を使わないからこそ、キネティックチェーン――足の裏から太腿、体幹へと連動する力の流れが、かつてないほど鮮明に理解できた。
(……すげえ。俺の身体、まだこんなに速く、深く動けるのかよ)
手首の負担を減らすためには、手首に頼らない圧倒的な下半身の安定と、体幹の捻転が必要だった。
俺は仮想空間の中で、汗だくになりながら狂気的な笑みを浮かべた。
痛みを庇うための消極的な休息ではない。これは、次なる壁をぶち壊すための、極上の「刃磨き」だ。
「カケール、いい動きだヨ! その調子で股関節を柔らかくネ! あ、メイリン・ホログラムのお尻に見惚れるのは禁止サ!」
「うるせえ! 誰が見惚れるかよ、この生臭いシャケ外しやがれ!」
「ノー! それは君の手首を守る聖なる盾だヨ!」
数日間の泥濘のような休息と、仮想の師たちとの終わらない訓練。
俺の肉体は、ギリギリの限界を維持しながらも、確実に新たな次元のテニスへと脱皮し始めていた。右手首の奥にあるガラスの破片は消えていない。爆弾は抱えたままだ。
だが、その痛みを制御し、全身のバネでボールを打ち抜くための下地が、静かに完成の時を迎えようとしていた。
――そして、約束の日は訪れる。
シェルターの扉が開き、まばゆい光が俺たちを包み込んだ。
ホログラムが消失し、目の前に現れたのは、最高峰の強者たち『トライアド』が待つ、次なるステージへのゲートだった。
「行くぞ、リチャード」
俺は手首に巻かれたシャケの保冷剤を引き剥がし、新しく頑丈なテーピングを巻き直した。
一点集中した瞳に、澄んだ殺気が宿る。
俺の野生は、テニスサイズへの進化を終えた。あとは、この新しく研ぎ澄まされた刃を、最初の三強の首元に突き立てるだけだ。




