第22話:穿つ閃光、針の悲鳴
第22話:穿つ閃光、針の悲鳴
――123球目。
無機質なラリーの応酬が、俺の肉体から確実に「命」を削り取っていく。
海から吹き上げる暴風が、容赦なく酸素を奪い、肺胞をヤスリのように削り続けている。冷徹な岩盤のサーフェスは、踏み込むたびに膝の軟骨をすり減らし、下半身のバネを鉛のように重くしていった。
視界は、眼球にこびりついた塩分と汗で白く濁っている。
だが、ネットの向こうの真壁は、一歩もその立ち位置を変えていなかった。
パコン、と。
俺が全身の力を振り絞って叩き込んだ強打を、彼は無表情のまま、またしても天空へと打ち上げる。
「ハァッ……、ハァッ……!」
荒い呼吸が、強風に掻き消される。
高く上がったロブは、海風に乗って不規則に揺れながら落ちてくる。それを追う俺の右手首は、もはや鈍痛を通り越し、熱した鉄串を関節の隙間にねじ込まれているような灼熱の痛みを訴えていた。
(クソッ……打っても打っても、リセットされやがる……!)
真壁の瞳には、一切の熱がない。
彼が愛しているのは、俺のような「才能」や「野性」を過信した若者が、この不毛な荒野で絶望し、自らの手で自らを壊していく姿だ。あのケン・ハワードの絶対的な数式の前で何もできなかった無冠の帝王の、生々しく、暗い復讐の儀式。
さらに最悪なことに、この強風下では俺の魔球(変化球)は風に流され、コースが定まらない。
打つ手がない。ただ体力が尽きるのを待つだけの、緩やかな処刑。
その時だった。
「オーゥ、マイ・ゴッドォォーーーッ!?」
突風が断崖を撫でた瞬間、俺の背後で悲痛な叫び声が上がった。
振り返ると、ベンチ代わりにしていた岩陰から、リチャードの頭に乗っていた愛用の英国製ハンチング帽が吹き飛ばされていた。
「私の、私の魂が! あれがないと私はただの丸い肉団子になってしまうヨ!」
リチャードは顔面を蒼白にし、ゴロゴロと岩盤の上を転がりながら帽子を追いかけた。だが、風に煽られた帽子は無情にもネットを越え、真壁のコートへと舞っていく。
このままでは、断崖の底へ真っ逆さまだ。
「おい、リチャード! 危ねえ、崖に落ちるぞ!」
俺がラリーの最中に叫んだ、その刹那だった。
真壁が、動いた。
彼は俺の打球をロブで打ち上げると同時――本当に、テニスの動作と全く同じ滑らかさで、空いた左手をスッと横へ伸ばしたのだ。
バシッ。
真壁の左手が、宙を舞っていたリチャードの帽子を、ノールックで完璧にキャッチした。
そして彼は、無言のまま、ラリーの最中だというのに帽子をフリスビーのように正確に投げ返し、リチャードの顔面に見事にかぶせた。
「……サンキュー、ミスター・ウォール……」
顔面に帽子をめり込ませたリチャードが、岩盤に這いつくばったまま親指を立てる。
真壁は何事もなかったかのように、再び無表情で次のロブの落下点に入っていた。
「……ぷっ」
極限状態のピンと張り詰めていた俺の神経の糸が、そのあまりにもシュールな光景に、一瞬だけ緩んだ。
なんだよ、それ。
どんな殺し合いみたいな真剣勝負してても、結局ただの人間じゃねえか。
「……ハハッ! アハハハハ!」
俺は、暴風の中で腹を抱えて笑い出した。
不思議と、肺の苦しさがスッと消え去っていく。真壁の「虚無」の心理戦に飲み込まれかけていた俺の脳髄が、一気にクリアな酸素を取り戻した。
「……何がおかしい。お前の手首は、もう悲鳴を上げているはずだが」
真壁が初めて、いら立ちを含んだ声を落とした。
「いや、あんたが面白すぎるからだよ。……けど、目が覚めたぜ。ありがとうな」
繋ぐだけじゃ、勝てない。
どれだけ重い球を打っても、真壁の『壁』はそれを吸収し、風に乗せてリセットしてしまう。
ならば。相手が反応する暇すら与えない、風の干渉すら置き去りにする『一撃』を突き刺すしかない。
俺は、大きく息を吸い込み、ラケットを身体の正面でピタリと止めた。
「なっ……テイクバックを、消した……?」
真壁の無表情が、初めて崩れた。
これまでのラリーで、俺は常に全身のバネを使い、大きくラケットを引いて強打を繰り返していた。だが今、俺は予備動作を完全に放棄し、ただボールの落下点にラケットをスッと差し出しただけだった。
(手首の負担? そんなもん、もうとっくに限界突破してんだよ)
高く上がったロブが、顔の高さまで落ちてくる。
俺は、インパクトの「その一瞬」まで筋肉の収縮を完全に抑え込み、ボールがガットに触れたミリ秒の瞬間にのみ、右手首の関節を異常な角度で爆発的にスナップさせた。
――『出所の見えない加速』。
慎吾のシステムを破壊した禁断の魔球。
テイクバックがないため、打つ直前までドロップショットにも見える。真壁の重心が、一瞬だけ前に傾いた。
その逆を突く。
ビギィッ!!
ボールを弾き出した瞬間、俺の右手首の奥深くで、鋭い「針」で直接神経を突き刺されたような、これまでとは全く異質の痛みが走った。
骨が軋む鈍痛ではない。何かの組織が、決定的に破断したような、冷たくて鋭利な悲鳴。
「――ッあああああっ!」
痛みに視界が白く反転する。
だが、俺のラケットから放たれたボールは、暴風の壁を文字通り「穿ち」、一切の空気抵抗を無視したかのような超加速で、真壁の足元の岩盤へと突き刺さった。
「ば、な……」
真壁は、一歩も動けなかった。
出所が全く見えない弾き。予測を許さない初速。
無冠の帝王が築き上げた絶対の『壁』の脇を、一筋の閃光がすり抜け、断崖の向こうの空へと消えていった。
『ゲーム、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!』
審判の電子音が、風の音を切り裂いて響く。
五つ目のアリーナ、突破。これで俺は、最高峰『トライアド』への挑戦権を手に入れたのだ。
「……ハァッ、ハァッ……ハハッ、見たかよ、おっさん……空ごと、叩き落としてやったぜ……」
俺は岩盤の上に仰向けに倒れ込み、狂気的な笑いを漏らした。
右腕は、もう指先を動かすことすらできない。ただ、燃えるような熱と、奥深くに刺さったままの「針」のような違和感だけが、毒のように脈打っている。
勝利の代償は、俺の肉体が支払う。それでいい。
「カケール……!」
リチャードが帽子を押さえながら駆け寄ってくる。
だが、俺を見下ろした彼の瞳には、勝利の歓喜はなかった。
リチャードの鋭い眼光は、俺のダラリと力なく伸びた右手首に、冷酷なまでに注がれていた。
その視線が、俺の肉体に起きた「取り返しのつかない異変」を、誰よりも正確に見抜いていることを、俺はまだ知る由もなかった。




