第21話:荒野の石壁と無冠の帝王
第21話:荒野の石壁と無冠の帝王
「オーゥ、ノーゥ! 待って、待ってクレ! 私の特製マグロ・アボカドロールが、天空の彼方へ飛んでいくヨォォーーー!」
荒涼とした岩肌を叩きつける、鼓膜を裂くような爆風。
コア・メトロポリスの灼熱地獄を抜け、俺たちが辿り着いた最後のエリア『デッドエンド・リッジ(絶望の断崖)』は、文字通り地の果てだった。
海から吹き上げる猛烈な風が、重力そのものを捻じ曲げているかのように身体にのしかかる。軟体状態からようやく骨格を取り戻したリチャードが、突風に煽られて真ん丸の巨体をゴロゴロと岩盤の上で転がらせ、悲鳴を上げていた。
「バカ、口を開けるなリチャード! 舌を噛むぞ! つーかこんな暴風の中で寿司を出そうとするな!」
俺は風に抗いながら、必死で岩にしがみついていた。
ただ立っているだけで体力をゴリゴリと削られる。足元のサーフェスは、整備されたコートとは無縁の、剥き出しの硬い岩盤だ。一歩踏み出すたびに、クッション性を一切持たない冷徹な硬さが、足の裏から膝、腰へとダイレクトに衝撃を伝えてくる。
少し動くだけで、肺の空気が強風に吸い出される。塩の匂いが混じった空気が気管をやすりのように削っていく。
(……最悪の環境だ。ここが、五つ目のアリーナかよ)
突風に目を細めながら前方を睨むと、断崖の際、一歩間違えれば奈落の底というコートの向こう側に、岩の一部のように微動だにしない男が立っていた。
エリア・マスター、真壁。
華やかなウェアを着飾る他のマスターたちとは違い、飾り気のない質素な衣服。しかし、その全身から発せられる密度は異様だった。まるで幾千の重圧をその肉体だけで耐え抜いてきたかのような、重く、沈んだ威圧感。
「……来たか。才能に溺れ、自らの寿命を食い潰す愚か者が」
真壁の声は、暴風の中でも不思議と鼓膜へ明瞭に届いた。
彼の視線は、俺の右手首に巻かれたどす黒く汚れたテーピングへと冷酷に突き刺さっている。慎吾との戦いで『手首の解放』を使った代償は、いまだに肉体を激しく苛んでいた。安静にしていれば脈打つ鈍痛だが、ラケットを握れば骨の芯から刃物で削られるような痛みが走る。
「愚か者、ね。そいつは最高の褒め言葉だ。俺は自分の感覚しか信じちゃいねえからな」
「そうか。あのケン・ハワードも、ここへ来た時は同じように涼しい顔をしていた。あいつは、私の築いた『壁』を、ただの一度も乱れることなく数式で解き明かして見せた」
真壁の瞳の奥に、深くどろりとした憎悪の炎が揺らめいた。
「お前たちのような、天賦の才を与えられた者特有の傲慢さ。それをこの絶望の断崖で、努力という名の泥濘に引きずり込み、磨り潰してやる。……お前のその壊れかけの腕が、どこまで悲鳴を上げずに持つか見物だな」
「……へっ。俺のテニスを、あいつの綺麗な数式と一緒にすんじゃねえよ」
俺は痛む右腕でラケットを拾い上げ、ヘラヘラした笑いを噛み殺した。
こいつのハッキングは、慎吾のようなデータじゃない。純粋な『悪意』だ。俺が手首を痛めていることを知り尽くした上で、それを最も残酷な方法で壊しにきている。
ならば、その悪意ごとねじ伏せるまでだ。俺の瞳に、職人的な殺気がじわりと滲む。
『ワンセットマッチ、真壁・リザーブ。プレイ!』
審判の声と共に、真壁がボールを放った。
強風に逆らって放たれたサーブは、決して速くはない。だが、岩盤にバウンドした瞬間、石のように硬く、重い衝撃を持って俺の手元へ迫った。
(遅え。これなら――!)
俺は岩盤を強く蹴り、ボールの上がり端を捉える。
痛みを脳内でアドレナリンに変換し、右手首の関節を固定したまま、体幹のひねりだけで強烈なトップスピンを打ち込んだ。
ドゴォン! と、暴風を切り裂くような快音が響く。
決まった。誰もがそう確信するほどの、完璧なコーナーへの強打。
だが、真壁はすでにそこにいた。
彼は無表情のまま、大木のように腰を落とし、俺の強打の衝撃をその頑強な肉体すべてで受け止めると――ラケットを下から上へと、ただ高く振り抜いた。
パコン、という気の抜けた音。
ボールは、暴風が吹き荒れる空高くへと舞い上がった。
「なんだ、あの高いロブは……!?」
高く上がったボールは、海からの猛烈な向かい風にぶつかり、空中でピタリと静止したように見えた。そして、不規則に揺れながら、俺のコートの深く、ベースラインぎりぎりへと力なく落ちてくる。
(クソッ、風で軌道が読めねえ……!)
俺は慌てて後ろへ下がり、無理な体勢からボールを再び強打で返す。
だが、真壁はまたしても同じ場所に立ち、無表情で高いロブを上げる。
打っても。
打っても。
打っても。
俺がどれだけ手首の痛みに耐え、殺意を込めた魔球を放とうとも、真壁は一切の攻撃の意志を見せず、ただひたすらにボールを高く打ち上げる。
それは、戦術というよりも、終わりのない苦行だった。
「……ハァッ、ハァッ……!」
ラリーが三十回を超えたあたりで、俺の息は完全に上がっていた。
強打を打つたびに、右手首の腱がキリキリと悲鳴を上げる。それを、一切の無駄な力を使わないロブで返されることの、精神的な徒労感。
俺の全力が、まるで何の意味もない虚無へと吸い込まれていくような絶望。
「オーゥ……なんてことだ。彼のテニスには、終わりがない……」
岩陰に隠れたリチャードが、青ざめた顔で呟いた。
「カケール! 彼の狙いはスコアじゃない! 君の闘争心と、その手首を『無意味な時間』で削り取ることサ! この暴風の中でロブを打ち合い続ければ、先に壊れるのは間違いなく君の腕だヨ!」
分かっている。
真壁の瞳には、「才能ある若者が、自分の壁の前で疲弊し、自滅していく姿」を待ち望む暗い狂気が宿っていた。
俺の『イレギュラーへの即応力』すら、この不毛なラリーの前では発揮する場所がない。
「……ッ、ふざけんなよ、おっさん……!」
額から滴る汗が、硬い岩盤に落ちて黒い染みを作る。
手首の骨が、こすれ合って微かな鳴き声を上げている。
このままじゃ、本当にジリ貧だ。だが、俺の口角は、こんな極限状態にあっても自然と吊り上がっていた。
「才能だの努力だの、知ったことかよ。そんなに高く上げるのが好きなら――俺がその空ごと、叩き落としてやる」
俺は、落ちてくるボールから目を離さず、再び痛む手首を強く握り直した。
終わらないラリーを断ち切るための、ただ一つの方法。
それは、俺の肉体が完全に壊れる前に、真壁の『壁』を物理的に穿つことだ。
激しい海風が、俺の逆立った髪を揺らす。
デッドエンド・リッジの冷たい岩盤の上で、無冠の帝王との、残忍なチキンレースが本格的に幕を開けた。




