第20話:数式のバグ、手首の解放
第20話:数式のバグ、手首の解放
ファイナルセット、タイブレーク。スコアは8対7、俺のマッチポイント。
コア・メトロポリスの心臓部を焼く40度の廃熱は、もはや致死量に達していた。
限界をとうに超えた俺の肉体からは、噴き出した汗が蒸発し、文字通り白い湯気となって立ち上っている。呼吸をするたび、干からびた肺胞が引き攣り、血の味が喉の奥にこびりついた。
ネットの向こう側。慎吾は一度だけ、自らの眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
一滴の汗もかいていなかった彼のこめかみを、いま、一筋の透明な雫が伝い落ちている。俺の「視覚を捨てた」野生の反撃が、彼の構築した『ケン・ハワードの絶対正解』という名の完璧なシステムに、修復不可能なノイズを走らせていたのだ。
「……認めよう、新卓駆。君の野生は、僕の予測値の境界線を越えた」
慎吾の合成音声のような声に、初めて人間らしい「焦燥」の微熱が混じる。
「だが、奇跡は連続しない。君の手首はすでに限界だ。次のレシーブ、君の腱は100パーセントの確率で断裂する。……それが、僕の導き出した最終解だ」
慎吾がトスを上げた。
空気が圧縮される音。陽炎の向こうから放たれたボールは、これまでのどの球よりも重く、深く、そして無慈悲だった。
俺の右手首がもっともロックされる、バックサイドの最奥。手首をこねなければ絶対にネットを越えない、そして、こねれば確実に骨が砕ける、完璧に計算し尽くされた「詰み」の弾道。
金属繊維の床を擦るようにバウンドしたボールが、俺の足元へ迫る。
(――折れるか?)
俺は、黄金色に歪む視界の中で、狂気的な笑みを深めた。
折れるかもしれない。いや、慎吾のデータ通り、このまま打ち合えば確実に俺の右腕は終わる。
だが、だからどうした。
ケンの美しい数式をなぞるだけの綺麗なテニスに、泥まみれの野良犬が屈してやる道理なんて、どこにもねえんだよ。
俺は、迫り来るボールに対して、ラケットを引かなかった。
テニスの常識である「テイクバック」を完全に放棄し、ただラケットを身体の正面にダラリと構えたまま、ボールがガットに触れるその「一ミリ秒」の世界まで、筋肉の収縮を完全に隠し通した。
「なっ……打たない、だと……!?」
慎吾の瞳孔が驚愕に見開かれる。
一瞬が、永遠のように引き延ばされていく。
陽炎に揺れるボールの毛羽立ち。大気を切り裂く風の摩擦。
ボールが、俺のラケットのガットに触れた、その刹那。
「――ぶっ壊れろやァ!!」
俺は、沈黙していた右手首の関節を、あり得ない角度で爆発的にスナップさせた。
卓球の台上処理を極限まで先鋭化させた、出所の見えない弾き――『手首の解放』。
バキィッ!
古い木造建築が暴風にへし折られるような、鈍く不吉な音が骨の芯から鳴り響く。
皮膚を突き破らんばかりに張り詰めた腱が、ピアノ線のように悲鳴を上げて弾けた。激痛が脳髄を白く焼き尽くす。だが、俺がその代償としてボールに与えたエネルギーは、テニスの物理法則を完全に超越していた。
「エラー……ッ!? 軌道計算、不能……!」
慎吾の脳内データベースが、致命的なバグを吐き出す。
予備動作ゼロから放たれたボールは、弾き出されると同時に強烈なサイドスピンを帯び、ネットを越えた瞬間に「くの字」に折れ曲がった。
データが弾き出したコースとは、完全に真逆。外側へ鋭く逃げていく、絶対不可避のアングルショット。
「あ、あああっ!」
慎吾は、データに従う機械としての自分を捨てた。
彼は初めて、ただの一人の「アスリート」として、絶対に届かないはずのボールへと無様に飛びつき、ラケットを伸ばした。
ガァンッ!
ボールの異常な回転力が、慎吾の差し出したラケットのフレームを抉り取る。
金属の摩擦音がアリーナに響き渡り、慎吾のラケットは手から弾き飛ばされ、クルクルと空を舞って後方のサーバー群へと叩きつけられた。
ボールは、コートの外で力なく転がっている。
『ゲーム、アンド・マッチ……! 勝者、新卓駆!』
審判の電子音が、地鳴りのような機械音の中に吸い込まれていく。
静寂が、降りた。
「カケール……! オーゥ、マイゴッド! なんという男だ君は! あの鉄の機械に、完全に心臓を埋め込んだヨ!」
コートサイドで、フニャフニャになったリチャードが涙と鼻水を流しながら叫んでいた。
「……っ、痛ってぇ……」
俺はラケットを取り落とし、焼け焦げるように痛む右手首を左手で乱暴に押さえた。
関節は悲鳴を上げている。だが、後悔は一ミリもなかった。
ネットの向こうで、慎吾が金属の床に両膝をついていた。
完璧なシステムを破壊され、絶対の正解を汚された男。しかし、床を見つめる彼の瞳に宿っていたのは、絶望ではなかった。
彼の腕には、予測不可能な未来に直面したアスリートとしての、初めての歓喜の鳥肌が立っていた。
「……計算、外だ。僕のデータに、あんな泥臭い軌道は存在しなかった。……君の、エラーだ……」
慎吾は震える声でそう呟くと、フッと、人間らしい歪な笑みを零した。
俺は滝のように流れる汗をシャツの袖で拭い、いつもの笑いを浮かべて彼を見下ろした。
「計算通りにいかないから、テニスは面白いんだろ? データ君」
熱風が吹き抜ける。
俺は、慎吾から渡されたアリーナ制覇の証拠をポケットに突っ込み、遥か上空、エターナル・ドームの方向を見上げた。
見てるか、ケン。
お前の綺麗な数式は、俺のこの痛々しい指先が、確かにぶち壊したぜ。
四人目のエリア・マスターを撃破。
残る壁は、あと一人。俺たちの不器用で情熱的な旅は、次なる絶望の断崖へと続いていく。




