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スマッシュフロンティア  作者: あめたす


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第17話:ハッキングされた野生

第17話:ハッキングされた野生


 電子的なアラームが、アリーナの天井から無機質に鳴り響いた。試合開始を告げるその高い電子音は、まるで処刑台のギロチンが落ちる瞬間のようだった。

 

 サーバー群の巨大な冷却ファンが吐き出す廃熱が、金属繊維のサーフェスをじりじりと熱していく。俺の肌にまとわりつく空気は、40度という数字以上に重く、ねっとりと湿っていた。呼吸を吸い込むたびに、熱せられた鉄の匂いが気管を灼き、肺の肺胞がひとつひとつ悲鳴を上げるのがわかる。

 

 対角線上に立つエリア・マスター、慎吾が、音もなくラケットを振り抜いた。

 

 トスに上がったボールの黄色いフェルトが、強烈な陽炎に包まれて空間ごとぐにゃりと歪む。次の瞬間には、球はすでにネットを越えていた。

 

(――速い、だけじゃねえ……!)

 

 空間認識のゲシュタルト崩壊。立ち上る熱気のせいで、ボールとの正確な距離感がどうしても脳に結ばない。水底から突き上げられるような錯覚に襲われながらも、俺は本能的に一歩を踏み込んだ。

 

 卓球で身体に染みついた『前陣速攻』のフットワークが、無意識に打点を前へと誘う。ボールを身体の目の前、最も威力を乗せられるはずの至近距離で捉えようとした――その瞬間だった。

 

 バウンドした打球は、金属の床を滑るように低く跳ね、俺の想定よりもはるかに鋭い軌道で手元へ突き刺さってきた。

 

「くっ……!」

 

 強引に手首をこねてライジングで合わせようとしたが、ラケット面がボールの重い質量を受け止めた刹那、右手首の奥でピアノ線が限界まで引き千切られるような、鋭い痛みが走った。古い木造建築が暴風に耐えるような、鈍く不穏な軋みが骨の芯まで響く。

 

 コントロールを失った打球は、無情にも大きくサイドラインを割った。

 

「15対0(フィフティーン・ラブ)」

 

 慎吾の眼鏡の奥で、淡々としたデータ文字列のような光が明滅する。彼は一滴の汗も流さず、精密機械の動作で次のサーブのトスを上げた。

 

「無駄だよ、新卓駆。君の動きはすべて、僕の演算の範疇(プログラム)に過ぎない」

 

 感情を排した合成音声のような声が、灼熱のコートに響く。

 

 慎吾の狙いは、あまりにも残忍だった。彼は、俺が卓球出身ゆえに打点を身体の目の前で捉えすぎる癖を、そしてこれまでの死闘で右手首の腱が引き千切れる寸前まで疲労していることを、完全にハッキングしていた。

 

 陽炎で距離感が狂うスレスレの低軌道球。それが、俺の手首が物理的に最もロックされる――つまり、一番ひねることができない可動域の限界を突くコースへと、ミリ単位の正確さで送り込まれる。

 

 打てば打つほど、手首の腱がじりじりと焼け付くように痛む。通常のストロークをすべてライジングで処理してきた俺のテニスが、その前提条件ごと根底から崩されていく。打点がズレ、タイミングが狂い、俺のラケットは何度も虚空を斬った。

 

「ゲーム、慎吾。2対0(ツー・ゲームズ・トゥ・ラブ)」

 

 わずか数分。スコアは一方的に慎吾へと傾いていた。

 額から溢れ出た重い汗が、まつ毛を濡らし、視界を濁った黄金色に歪ませる。ネットを挟んで対峙する慎吾の、冷徹に肺が膨らむ規則正しい呼吸の音までが、耳の奥で自分の心臓の鼓動と同期して、うるさいほどにシンクロしていた。

 

(畜生、完全にハメられてる……)

 

 拭えない敗北の予感が、胸の奥底から黒い泥のように湧き上がってくる。自分の『荒れた庭の野生』が、冷たい数式の前にただの『エラー』として処理されていくような、暗い焦燥感が背筋を駆け抜けた。

 

 チェンジコートを告げる電子ブザーが鳴り、俺は命からがらベンチへと引き揚げた。

 

 その時だった。

 

「……カ、カケール……水を……私に、水分をクレ……」

 

 ベンチの足元から、おどろおどろしい呪詛のような声が聞こえた。

 見下ろすと、そこには人間としての骨組みを完全に失ったかのような、信じられないほどグニャグニャになった怪しげな塊が転がっていた。リチャードだった。

 

 最新鋭のAIマッサージ機に全身を揉みほぐされ、さらに工場コンベアで箱詰めにされかけた衝撃のせいか、彼の巨体はまるで茹ですぎたうどんのように軟体化していた。

 

「うわっ、なんだよリチャード! 生きてたのか!」

 

「生きているともサ! だがネ、関節という関節がすべてマシュマロのようになってしまったヨ……!」

 

 リチャードは、寿司のシャリを握るどころか、粘土細工のようにおぼつかない手つきで、俺のベンチに置いてあった生茶のペットボトルを掴んだ。骨のないタコのような動きでキャップを歯で無理やりこじ開け、一気に喉へと流し込む。

 

「ぷはぁ! オーゥ、生き返るネ! ……それにしても、カケール。あの眼鏡の少年、恐ろしい男サ。あの目はネ、君が昨日おやつに食べた大福のグラム数まで計算し尽くしている顔だヨ……!」

 

「そんなわけねえだろ! どんなデータテニスだよそれ!」

 

 的外れすぎる恐怖を真剣に語るリチャードに、俺は思わず吹き出しそうになった。引き詰められていたコートの緊張感が、このおデブさんの存在だけで、絶妙に脱力していく。

 

 だが、リチャードは空になったペットボトルを置くと、その贅肉の下に隠されたセミプロ時代の「鋭い眼」を一瞬だけ覗かせた。

 

「……デモネ、カケール。データというのは、しょせん『過去の足跡』に過ぎないヨ。あの少年は完璧な数式を操るが、それは裏を返せば、予測できない未来(イレギュラー)を何よりも恐れているということサ。君のその壊れかけの手首が、これからどんな『狂気』を産み落とすかまでは、あの機械の頭脳には記述できないネ」

 

 リチャードの言葉が、冷え固まりかけていた俺の脳髄に、再びパチパチと火花を散らす。

 

 そうだ。綺麗なテニスの教科書なんて、最初から鼻で笑って捨ててきたんだ。

 手首の激痛。引き千切られそうな腱。それらは俺にとって、今この瞬間に、全力を出して世界をひっくり返すための『勲章(対価)』に過ぎない。

 

 チェンジコートの終わりを告げるブザーが鳴る。

 

 俺は締まりのない笑みを完全に消し去り、再び金属のコートへと歩き出した。一点集中した瞳の奥に、どす黒い執念と狂気が灯る。ミリ単位で回転を操るこの指先に、スポーツマンのそれとは違う、鍵師や彫刻家のような職人的な殺気がじわりと宿っていく。

 

「過去のデータがなんだって?」

 

 ラケットを強く握り直すと、右手首の奥でピアノ線が再び鋭い高音で鳴り響いた。俺はその痛みを脳内で強引に極上の快感へと変換し、涼しげな顔の慎吾を睨みつける。

 

「お望み通り、お前のその綺麗なシステム、完膚なきまでにバグらせてやるよ」


 第3ゲーム。本当の生存競争が、ここから始まる。

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