第16話:歪んだ陽炎と鉄の都市
第16話:歪んだ陽炎と鉄の都市
湿った緑の監獄を抜けた俺たちを待っていたのは、網膜を暴力的に白ませる、冷徹な金属の光沢だった。
鋼鉄の心臓部――『コア・メトロポリス』。
24時間、途切れることなく重低音の機械音を響かせるその都市は、異世界というよりも、どこか歪んだ近未来の工場プラントのようだった。絶え間なく吐き出される重油と焦げた鉄の匂いが、鼻腔の奥をチリチリと刺激する。
「……オーゥ、ノー。カケール、私の可憐な背骨が、いまにもポップコーンのようにはじけ飛びそうヨ……!」
到着早々、長旅の疲労を訴えたリチャードが転がり込んだのは、24時間営業を謳う薄暗いレストハウスの一角だった。そこにあった最新鋭を自称する『AI式超音波自動揉み解し機』に、彼はその巨体を無理やりねじ込んだのだが――それが悲劇の始まりだった。
ジ、ジジッ、と不穏な電子音が響いた直後、機械の金属アームが、獲物を捕らえた万力のようにリチャードの脇腹をガッチリとホールドした。
「ハ、ハイッ!? ちょっと、圧迫がディ・モールト・強烈サ! ストップ、機械のユー、ストップ!」
「エラー、エラー。規格外の質量を感知。強制圧縮モードを開始します」
「オーゥ! 誰が規格外のデブですかコンチクショウ! カケール、助け……て……あぶぶぶぶぶぶぶ!」
凄まじい高速振動がリチャードの脂肪を波打たせ、彼の悲鳴が細かく震える。止めようと俺が操作パネルを殴りつけた瞬間、パチリと火花が散り、なぜかリチャードをホールドしたまま、マッサージ機の土台ごと床のハッチが開いた。そこはあろうことか、隣接する精密部品工場の「出荷用ベルトコンベア」へと直通していた。
「ちょ、リチャードォ!?」
「ナ、ナローゥ! 英国紳士が……英国紳士が箱詰めにされるゥゥーーー!」
シュールな速度でコンベアを流れていくリチャードと機械の塊。俺はヘラヘラと締まりのない笑いを浮かべそうになるのを必死で堪え、ジャージの裾を翻して工場の奥へと全力で走り出した。まったく、あのデブの食欲とトラブル察知能力には、野生の勘も形無しだ。
――だが。
リチャードをどうにかコンベアから引き剥がし、本題であるアリーナ『データセンター』の鉄の扉を押し開けた瞬間、俺の脳髄に張り付いていた弛緩した熱気は、一瞬で凍りついた。
冷気ではない。その逆だ。
ゴォ、と地鳴りのような音を立てて吹き荒れるのは、巨大なサーバー群が吐き出す、40度を超える猛烈な「廃熱」の嵐。一歩足を踏み入れただけで、肺の腑がじりじりと焼けるような感覚に襲われる。
何より異様だったのは、コート全体の「視界」だった。
足元のサーフェスは、鈍く光る特殊な金属繊維の床。そこから立ち上る強烈な陽炎が、空間そのものをぐにゃぐにゃと不気味に歪めていた。
ネットの白い帯が、10メートル先の境界線が、まるで水底に沈んだ景色のようにおぼろげに揺れている。手を伸ばしても、その指先が虚空に溶けてしまいそうな錯覚。
(……距離感が、掴めねえ……)
脳が、空間の正しい形を認識することを拒絶している。これが、環境の地獄。立っているだけで平衡感覚が摩耗し、これまでのライジングショットや手首の返しといった、精密な打点の前提条件が、一ミリも通用しないことを本能が悟っていた。
その陽炎の向こう側から、一人の男が滑るように現れた。
エリア・マスター、慎吾。
この灼熱の地獄において、彼は奇妙なほどに涼しげだった。衣服の襟元ひとつ乱れず、皮膚には一滴の汗さえ浮かんでいない。ただ、その双眸だけが、暗闇で発光するレンズのように無機質にこちらを凝視している。
彼の握るラケットは、スポーツの道具というよりも、肉体を解剖するための外科医のメスのように精緻に、寸分の狂いもなく構えられていた。
「新卓駆。君のデータは、すでに我がシステムの中に記述されている」
感情を一切排した、合成音声のような声がアリーナに響く。
「卓球出身特有の、身体の前面で捉えすぎる打点。そして――限界寸前まで引き千切られ、悲鳴を上げている、その右手首の腱の損耗率」
心臓が、跳ねた。
慎吾の眼鏡の奥で、膨大な文字列のような光が明滅する。彼は、ただコートに立っているのではない。俺の「過去」と「弱点」を完全にハッキングし、自滅させるための戦術をその脳内に展開している。勝負は始まる前から、俺の肉体を削り取るための残忍なチキンレースへと変貌していた。
ゾク、と首筋の毛穴が逆立つような悪寒が走る。
完璧なデータ。歪む空間。圧倒的な不利。
けれど、次の瞬間、俺の唇の端は自然と吊り上がっていた。さっきまでのヘラヘラとした表情は消え失せ、一点集中した瞳の奥に、どす黒い「狂気」に近い執念が灯る。
「記述されてる、ねえ……」
右手首の奥で、チリッと鋭い痛みが走る。それを「勲章」として、今この瞬間に全力を出す理由として、俺は脳髄で強引に快感へと変換する。
予測できないイレギュラー。それこそが、ボコボコの庭で一人、誰にも理解されないテニスを研ぎ澄ませてきた俺の、最高のホームグラウンドだ。教科書のデータなんて、その面の皮ごと引っぺがしてやる。
じわり、と俺の指先に、職人的な殺気が宿る。
「なら、そのシステムごと、バグらせてやるよ」
金属のコートに、激しい電子音が鳴り響き、運命の幕が上がる。一瞬を永遠に変える、ミリ秒の死闘が、今始まった。




