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スマッシュフロンティア  作者: あめたす


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第15話:研ぎ澄まされる刃

第15話:研ぎ澄まされる刃


 皮膚の一枚下側で、どろりとした熱が不気味に自転している。

 心臓の拍動と完全に同期して、右手首の関節が内側からミシミシと押し広げられるような鈍痛。指先をわずかに曲げようとするだけで、前腕の筋肉が乗ったピアノ線がキチキチと悲鳴を上げ、脳髄に鋭い電気信号を送り込んできた。

 アリーナの薄暗い控室。俺は、丸太のようにパンパンに腫れ上がった自分の右腕を冷ややかに見つめていた。


「あんな勝ち方、納得がいかねえ……」


 ぽつりと溢れた声は、湿った部屋の空気に吸い込まれて消えた。

 メイリンには勝った。スコアの上では、確かに俺の勝利だ。

 けれど、あの最後の瞬間、俺の脳裏を支配していたのは純粋な勝利ではない。静電気で逆立った髪と、原住民が捧げた毒キノコの熱気が生んだ、あまりにも都合のいい『上昇気流』――そんな、世界のバグのようなギャグ補正がなければ、俺のラケットはメイリンのスマッシュに弾き飛ばされ、手首ごと粉砕されていただろう。

 天を仰ぐ。視界の端に、あの冷徹で完璧な「静かなる天才」の背中が揺れた。

 ケン・ハワード。

 あいつは今、この世界の遥か高みで、一点の汚れも傷もなく、美しい数式を解くように勝ち続けている。それに引き換え、俺はどうだ。たかがエリア・マスターの三人目で、自分の身体を削り、偶然の神風に縋らなければ席を立つこともできない。

 焦りが、体液となって全身の毛穴から滲み出てくるようだった。

 新しい武器が要る。手首の骨と骨が軋み合うこの魔球だけに頼っていては、次に出会う怪物たちに、文字通り骨まで噛み砕かれる。今すぐ立ち上がって、ボコボコの庭で壁打ちをしていたあの時のように、狂ったようにラケットを振らなければ――。


「オーゥ、カケール! そんな怖い顔をして腕を睨みつけても、贅肉は減らないし怪我も治らないヨ?」


 重々しい扉を蹴破るようにして入ってきたのは、場違いなほど陽気な声を出したリチャードだった。

 その両手には、木製の粗末な皿が握られている。


「原住民の皆さんから、ユーへの貢物の追加サ! 名付けて『爆沸キノコの醤油磯辺焼き風・ミストフォレスト仕立て』! いやあ、彼らは本当にユーを『針の御神』と信じ切っているネ。私の持参したキッコーマンの醤油との相性がディ・モールト・ベネ(最高)だヨ!」


「食うなと言ったろ、その毒キノコ! というかリチャード、お前また太ったか? 異世界に来てまで何食欲を満たしてんだよ!」


「ノー! これは筋肉の上を優しくコーティングする、英国紳士の防護壁(プロテクション)サ。……おや? ちょっと待ってネ、なんだか舌の根元が激しく痺れて――」


「完全に毒の初期症状じゃねえか! 今すぐ吐き出せ!」


 ハグハグと怪しい紫のキノコを咀嚼しながら、ろれつの回らない舌で笑うリチャードに、俺は全力でツッコミを入れる。ひとしきり騒ぐと、部屋を包んでいた刺すような緊迫感が、ほんの少しだけ和らいだのが分かった。

 リチャードは皿を机に置くと、不意にそのおどけた表情を消した。

 贅肉に埋もれているはずの双眸が、鋭い職人のガラス玉のように、俺の右手首を射抜く。


「……冷やしなさい、カケール」


 リチャードが差し出してきたのは、この森の奥で採れるという、触れるだけで皮膚が凍りつきそうな冷気草の束だった。

 俺は黙ってそれを受け取り、腫れ上がった手首に巻きつける。じりじりと焼けるような熱痛が、強烈な冷気によって強引にねじ伏せられていく感覚。それは心地よくもあり、同時に自分の肉体の脆さを突きつけられているようで、ひどく惨めだった。


「リチャード、俺はまだ休めない。次のエリアに向けて、もっと正確に、もっと速く、手首の返しを極めねえと――」


「ダメだヨ、カケール」


 リチャードの声は静かだったが、そこにはかつてプロのコートに立ち、そして夢を諦めた男の、重い打球のような説得力があった。


「カケールがケンを意識する気持ちは、私にも痛いほど解る。あの子は、世界基準の『正しいテニス』の化身だ。無駄がなく、美しく、残酷なまでに正しい。それに追いつくために、ユーが自分の『野性』を燃やし尽くそうとするのも、理解はできる。……デモネ、カケール」


 リチャードは大きな手を伸ばし、俺の左肩を、がっしりと掴んだ。

 その掌の熱が、湿ったシャツを通して皮膚に伝わってくる。


「ユーのテニスは、教科書のテニスじゃない。あのボコボコの庭で、誰にも理解されなくても、自分だけの感覚をミリ単位で研ぎ澄ませてきた『職人のテニス』サ。職人が一番大切にしなければならないものは、何だい?」


「……素材、と、道具だ」


「その通り。そして今、カケールにとっての最高の素材であり、唯一無二の道具は――その傷だらけの肉体、その手首そのものだヨ」


 リチャードの視線が、俺の冷気草に包まれた手首に落とされる。


「力を入れすぎたシャリは、米粒が潰れてただの団子になる。力を抜きすぎれば、醤油につけた瞬間に崩壊する。カケールの手首の魔球は、常に『最大出力』の暴力で素材をこねくり回している状態サ。伝統的なサーブ&ボレーを愛した私もね、かつて圧倒的なパワーに直面した時、力には力だと、肉体の限界を超えてラケットを振り続けた。……結果は、このザマサ。プロの道は閉ざされ、いまや寿司好きのただのおデブさんだネ」


 自嘲気味に笑う叔父の言葉に、胸の奥がキリリと痛んだ。

 リチャードが時折見せる、この過去の後悔の影。それは悲劇の押し売りではなく、今ここにいる俺を、同じ地獄へ落とさないための、必死の防波堤なのだ。


「休むこともね、カケール。立派なトレーニングなんだヨ。動かさないことで初めて、筋肉の繊維は『自分がどう壊れたか』を理解し、次にどう繋がるべきかを学習する。職人が刃物を研ぐように、今はその肉体を、静かに休ませる時間サ」


 休むことも、トレーニング。

 その言葉が、俺の頑なな「自己信頼」の隙間に、じわりと染み込んでいった。

 確かに、俺は焦りすぎていた。

 手首を無理にこねるだけの変化球は、いつか必ず限界が来る。メイリンはそれを見抜いていた。なら、必要なのは手首をさらに痛めつける練習ではなく、「手首に負担をかけずに、同等以上の、いや、それ以上の変化と重みを生み出す」ための、全く新しい身体の使い方の模索だ。

 そのためには、一度、この昂ぶった神経と肉体を完全にリセットしなければならない。


「……分かったよ、リチャード」


 俺は冷気草の巻かれた右腕をそっとベンチに横たえ、仰向けに寝転がった。

 ヘラヘラとした普段の仮面を引き剥がした俺の瞳に、再び、狂気にも似た鋭い執念の光が灯る。


「今は、止まってやる。リチャードの言う通り、刃を研ぐ時間にしてやるよ。だけどな……」


 俺は、天井の木目の隙間から見える、わずかな光の筋を見つめた。


「俺は錆びつくために休むんじゃねえぞ。次のエリアで、あのデータの塊みたいな奴の鼻を明かしてやるために、極上の切れ味に仕上げてやる」


「オーゥ、その意気だヨ、カケール! よし、そうと決まれば、この『爆沸キノコ』をもう一つ……ゲフッ、なんだか本当に、お腹の底からマグマが湧き出るように熱いネ……これ、本当にただのキノコかな……?」


「だから毒キノコだって言ったろ! おい、顔が紫色になってるぞリチャード! しっかりしろ!」


 静寂を取り戻し始めたミスト・フォレストの片隅で、俺たちの不器用で、泥臭い咆哮が再び響き渡る。

 窓の外を見やれば、あれほど深く立ち込めていた霧がサラサラと完全に晴れ、その遥か先――金属的な輝きを放つ次なる戦場、『コア・メトロポリス』の摩天楼が、冷徹に俺たちを待ち構えていた。

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