第18話:正解という名の幻影
第18話:正解という名の幻影
じりじりと、足の裏から肉が焼けていくような錯覚を覚える。
金属繊維を編み込んだサーフェスは、コア・メトロポリスの廃熱を容赦なく蓄え、40度を超える熱風を容赦なく跳ね返していた。
吸い込む空気は重く、喉の奥にへばりつくような鉄の味がする。額からこぼれ落ちた大粒の汗が、じわりと右目に侵入した。強烈な塩分が眼球を刺激し、視界が濁った黄金色に歪む。
その歪んだ世界の中心で、俺は再びラケットを構えた。
瞳の奥に狂気を灯し、手首の激痛を快感にすり替えて臨んだ第3ゲーム。
だが、冷徹な数式は、俺の気迫ごときで揺らぐものではなかった。
「無意味なバイタルデータの上昇だ。心拍数172。呼吸の乱れ、パーセンテージにして12の効率低下。君のそれは、ただの『自暴自棄』というエラーだよ」
慎吾の打球が、陽炎を切り裂いて迫る。
バウンドの瞬間、金属床とフェルトが擦れる不快な高音が鼓膜を刺した。地を這うような低軌道。俺の手首が物理的にロックされ、もっとも負荷がかかるコースへ、ミリ単位の狂いもなくボールが突き刺さる。
強引に手首をこねて拾おうとするたび、腱の奥でピアノ線が限界まで引き千切られるような痛みが走る。古い木造建築が暴風にきしむような、鈍く不穏な音が骨の芯から脳髄へと直接響いた。
打球は無情にもネットの白帯を叩き、自分のコートへ落ちる。
「ゲーム、慎吾。3対0」
無機質な電子音声がアリーナに響く。
その瞬間、データセンターの天井に備え付けられた巨大なメインモニターが、まばゆい光を放って切り替わった。
『新卓 駆――勝率:3.14%』
デジタルフォントで冷酷に刻まれた数字。それだけではない。慎吾はラケットのフレームを人差し指でトントンと叩きながら、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「君の『野生』が、なぜ僕のシステムを突破できないか、本当の理由を教えてあげよう。僕がトレースしているのは、この世界における『絶対の正解』だからだ」
慎吾が指し示したモニターの画面に、ノイズ混じりの映像が映し出された。
息が、止まった。
そこに映っていたのは、白のウェアを端正にまとったハーフの青年――ケン・ハワードだった。
映像の中のケンは、今俺が立っているこの灼熱の地獄、陽炎で空間認識がゲシュタルト崩壊を起こすコア・メトロポリスのコートに立っていた。
だが、あいつは一滴の汗も流していないように見えた。
40度の熱風も、ぐにゃぐにゃに歪む空間も、あいつにとっては最初から計算に組み込まれた美しい数式に過ぎないのだと言わんばかりだった。
慎吾の放つ、ミリ単位の精密な配球。それを、ケンは一歩も無駄に動くことなく、まるで美しい旋律を奏でるように流麗なスイングで打ち返していく。残酷なまでにエレガントな秩序の化身。
画面の端に表示されたスコアは、『6対0』。慎吾のデータテニスを、ケンは完璧に、文字通り一ポイントの猶予すら与えずに支配し、へし折っていた。
「ケン・ハワード」
慎吾の声が、いつもよりわずかに熱を帯びる。
「彼はこの過酷な環境すら、己の理論で完全に制御してみせた。僕のシステムは、彼のその『絶対正解』のプレイデータを基に構築されている。君の泥臭い、歪んだテニスはね、新卓駆。彼が切り捨てた『無駄』の領域にすら達していないんだよ」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
ネットを挟んで対峙する慎吾の呼吸と、自分の鼓動がうるさいほどにシンクロしていく。
拭えない敗北の予感が、胸の奥底から黒い泥のように湧き上がってきた。
自宅のボコボコに荒れた庭で、地面のイレギュラーバウンドを一人で追いかけていたあの孤独な時間。誰にも理解されず、ただ自分の感覚だけを頼りに研ぎ澄ませてきた『卓球×テニス』の結晶。
それが、ケンの残した完璧なプログラムの前に、ただの汚い『エラー』として処理され、消去されていく。
(俺のやってきたことは……あいつの模倣にすら、届かないのか?)
圧倒的な美しさを前にして、胸の奥が焼き切れるような暗い焦燥感が背筋を駆け抜ける。避けられない敗北の未来が、頭の中で鮮明な映像を結び始めていた。
手首が、疼く。
まるで「もう諦めろ」と肉体が悲鳴を上げているようだった。
――だが、その暗闇の底で、俺の血が不意に沸騰した。
「……ハッ」
自然と、乾いた笑いが口から漏れた。
下を向いていた顔を、ゆっくりと持ち上げる。歪んだ黄金色の視界の向こう、相変わらず冷徹な顔でこちらを見下ろしている慎吾を、俺は射すくめるように睨みつけた。
「教科書のテニスなんてな……最初から、鼻で笑って捨ててきたんだよ」
脳裏に浮かぶのは、ケンの美しい数式ではない。
あの草の生い茂った、ボコボコの庭の土の匂いだ。誰も信じてくれなかった、自分だけの感覚だ。
あいつが『絶対の正解』なら、俺はそれを破壊する『最悪の不確定要素』でしかあり得ない。
「ケンが正解? 慎吾、お前はあいつのデータを見て満足してるだけの、ただの観客だ」
ラケットのグリップを、指先がちぎれるほどの力で握り直す。
右手首の奥で、張り詰めたピアノ線が、今度は鋭い高音を奏でて鳴り響いた。激痛が走る。だが、その痛みこそが、俺が今この地獄のようなコートで生き、抗っていることの何よりの証明――最高の対価だった。
スポーツマンの爽やかさとは程遠い、ミリ単位で獲物の命を奪う鍵師や彫刻家のような、職人的な殺気が俺の指先に宿る。
「あいつの残像をなぞっただけのプログラムで、俺の野生が飼い慣らせると思うなよ」
瞳の奥で、どす黒い執念と狂気が爆発的に輝き出す。
第4ゲーム。
システムに殺されるか、数式をバグらせるか。
俺たちの、本当の残忍なチキンレースが、幕を開ける。




