8-4 時間すらも繰り返していたのかも
「あ」
後ろを振り返ったオッサンは、ステーキの最初の切れ端を口に入れるところだった。
ドアが大きく開け放たれる。途端、飛び出してきたのは毛むくじゃらのナニか。ソレは巨大な獣の前足。
一つだけじゃない、幾つも。
前足は一斉にオッサンを掴み、絡め取り、一息で中へと引きずり込んだ。
一瞬の出来事。
悲鳴すらなかった。
出て来るのも唐突なら消え去るのも然り。
剣を振うどころか声を出す暇すらなかった。
消え去った当の本人ですら何が起きたのか理解する間もなく、残ったのはフォーク片手に振り向くオッサンの残像だけだった。
直ぐさま我に返って彼を呼ぶ。
「オッサン!」
まだ名前も聞いてなかった。だからそう叫んで戸口に踏み込もうとした。
途端、応えるかのように飛び出す。今しがたの毛深いソレが。
身体が勝手に反応していた。反射的と云っていい。考える暇すら不要。
膂力と脚のバネ、自分の体重すべてが一刀に乗る。
刹那の一閃。
剣先が肉を分かち骨を断つ感触。
「ぎゃっ」と悲鳴、飛沫が廊下に跳ね先端が転がった。
そのまま勢い込んで床を蹴る。
だが開いた時と同じ様、ドアは唐突に閉じた。眼前で阻まれ、カシャンと響く機械的な音。
慌ててノブに取り付く。だがもう頑として開かない。
「くそっ」
悪態付いてドアを叩いた。
だが、どんっと固い音が返るばかり。
再び「オッサン」と叫んだ。何度もドアを叩いた。何度も叫んだ。ノブも捻った。
雨音の止まない廊下に、俺の声と拳で叩く音が響く。だが返事は無い。ドアも開かない。耳を当てて中の音を聞く。
中で何かが暴れている気配が在った。だがそれも直ぐに聞こえなくなった。
「オッサン!」
もう一度呼ぶ。やはり返る声は無くて、それきりだった。もう何も聞こえて来なかった。
そのまま、しんと静まりかえってしまったのである。
「……なんてこった」
すべてがわずか数拍の時間。突然起きて、突然終わった。
一分どころか二〇数える合間が在っただろうか。
廊下には蹴倒されたテーブルと椅子、そして割れた酒瓶や料理が散らばり、廊下を汚していた。
そして足元には、俺が切り落とした獣の前足と思しきものが転がっているだけだ。
どうしたモノかと小さくため息をつく。
どうにかオッサンを助けられないモノかと考えると同時に、きっともうダメなんじゃないかと、半ば確信もして居たからだ。
このマンションに出没する「居ちゃ駄目」な連中は、ヒトへの忖度なんて微塵も無い。
ましてや、わざわざ相手を肥やしてからモノにしようなどと、そんなコトを企む連中に期待するほうが間違って居る。
「でもだからと言って、このままってのも……ん?」
この階のドン突きにある部屋、露天の非常階段があるすぐ横の玄関のドアが、小さな軋み音を立てながら開くのが見えた。そして廊下に何か薄汚れた荷物をどすんと放り出すと、慌てたように閉じるのだ。
閉じる瞬間、その隙間の影から何かがジッとコチラを窺って居る視線を感じたが、そのまま何事も無く閉じきって鍵の掛かる硬質な音が響いて聞こえた。
警戒しながら歩み寄って見れば、それはあのオッサンの手提げ袋とリュックだった。
手提げ袋の中には俺があげたルーズリーフ一式と、赤黒い染みの付いた臭い立つ衣服や靴が入って居た。
かてて加えてリュックの中には、つるつるに磨かれたしゃれこうべまで入って居る。顔を近づけたらつんと生臭い血の臭いがした。
ひょっとして、コレはあのオッサンだろうか。確かに奥歯にキラリと光る三本の銀歯が在るけれど。
ドアの向こう側に引き込まれて五分と経っていない。
コレがソレだとしたら随分と食い意地の張った連中だ。
更にルーズリーフには幼稚園児が書いたのかと思えるような稚拙な字体で、「あなたにわ、もうしません」と書かれてあった。「ゆるしてくらちい」ともあった。
「あなたには」ってコトは、俺以外にならまたするってコトかな。
そして持ち物は要らないから持って帰れと。
全く以てヤレヤレだ。ホントにもう色々と。
許してくれなどと書いているが、もう一度見かけたら問答無用で切りつけてしまうに違いない。
あの毛むくじゃらな前足しか見てないけれど。
そして足の数からして一匹や二匹じゃ無さそうだ。やり合うとなったらちょっと骨が折れるかも。
そしてもう一つ妙なモノを見つけた。
いや視界の端にチラ見えたと言った方が正しい。それはエレベータへの入り口、その差し向かいに在る柱の陰から、俺を手招きする白くて細い手だった。
白い手は波打つように、ゆらりゆらりと俺を招く。ゆっくりと揺らめき手招きしている。
細い指先が艶めかしくて、女性のモノだなと確信出来る妖しさが在った。
この位置からでは身体は見えない。いや果たして身体が在るのかどうか。先ほど俺のスラックスを引っ張ったヤツだろうか。いや同じものなんだろうな、きっと。
どうしようかと少し悩んで、招かれてみることにした。怪しくてもコチラから色々と試してみないと、この状況から抜け出すコトなんで出来ないだろうし。
歩み寄って行く内に手招きは止んで、一枚の紙を取り出すと床に置いた。そしてソレを指差した後にスッと柱の陰に掻き消えるのである。
早足で近寄って覗き込んで見ても、やはり何も居なかった。
がらんとした人気の無い空間が在るダケだ。
紙を拾い上げてみる。そこには簡単な絵が描かれていた。棒人間が階段を登っている絵だ。でも何故か、一緒に描かれた矢印は後ろを指し示して居るのである。
「階段を下れ?いや、ひょっとして、後ろ向きに下れという意味なのかな」
確かに階段の上り下りは前向きでしかやってなかった。っていうか、普通後ろ向きでなんて在り得ない。踏み外したらそのまま仰向けに転がって踊り場まで一直線だ。
なるほど。単純だけど誰もしないよな。きっとあのオッサンもやったコトは無かったに違いない。
なので試してみることにした。
コンクリート製の手摺りを掴んで階段をゆっくりと後退る。
足元を確かめながら降りれば問題は無いはずだが、思いのほかに不安定。薄暗いので尚更だった。
それでも踊り場まで到着し、そのまま向きを変えて更に下へ降りて行く。果たして、何処まで降りればいいんだろう。今まで登った階数全部というコトになったら、ちょっとした苦行だ。
「おや、深山さん。どうしたんですか、後ろ向きで階段から降りてくるなんて」
聞き覚えのある声に振り返って見れば、濃い色合いのスーツを隙無く着こなした伊勢さん立って居た。
「え、あ、ここは?」
振り返って辺りを確かめて見ればそこは見慣れたマンションの一階、エントランスに立って居た。
ハッとして上を眺める。その天井はいつもの高さだった。エレベータ出入り口の上にある階数表示板もやはり、九階までしかない見慣れたいつものヤツである。
「どうしたんです。上にナニか在るんですか」
釣られて見上げた伊勢さんに「何でもありません」と苦笑する。
「どうやら戻って来られたようです」
そしてヤレヤレと決して小さく無い安堵の吐息をついた。
エントランスの外はまだ雨が降っていた。
腕時計で時間を確かめる。時計の針は俺がマンションに帰り着いた時間を指していた。時計の針は俺がマンションに帰り着いた時間を指していた。決して短くない時間、あの階段をあくせく昇り詰めていたというのに。
もしかするとあの階段は階数だけではなく、時間すら繰り返していたのかも知れない。
本当に、全く以てやれやれである。




