8-3 ドアがカチャリと音を立てて
「ほうほう。ソレではきみは日々このマンションに出入りする度に不可思議なことに出来わし、その腰のモノでそれを追い払いながら生活しているという訳なんだね」
オッサンは階段に腰掛けてパックのオレンジジュースをちゅうと吸っていた。当然のように、誰も居ない部屋の冷蔵庫から勝手に拝借したものだ、と言っていた。
取ってきた四つのうち一つを勧められたが口は付けていない。イヤな予感がしたからだ。
「そのせいで、って訳でもないですが、俺もこの手の異常事態には割と慣れている方だと思います。今はこうして何事もなく登り降り出来て居る様ですが、いつ何時手の平返されるか。油断は禁物だと思いますよ」
「はっはっは。きみぃ、こう見えてもわたしは一ヶ月以上を此処で生活しているんだ。未だかつてそんな危機にはとんとお目に掛かったコトはない。言わばこのマンション階段のエキスパートなんだよ。
いわば階段マスターだ。杞憂だよ杞憂。危険など一切ない、心配など不要だ」
そして再び、がははと笑って俺の背中をばんと叩いた。地味に痛かった。そもそも何だよ、階段のエキスパートって。ただ階段を行き来するだけに、そんな大層な技能や肩書きが必要なのか?
「そもそもそんな物騒なモノを振うチャンスなんて在るのかね。え、ほぼ毎日使ってる?そりゃあまたご苦労なことだな。まぁ確かに、ゾンビやモンスターに出会したら使う事もあるかもだが」
少々神経質に過ぎないかね、それともマンガやアニメに触発されているのかな、幽霊の正体見たり枯れ尾花、怖いと思っていると在りもしないモノが見えたりもする、などと、片頬で笑んで見せるのだ。
なるほど、このヒトはココでこの階段以外の「非日常」には出会したコトが無いらしい。
まぁ、無理に信じてもらう必要は無かった。
無駄な議論をするつもりもない。一ヶ月無事という言葉を信じるのなら、直に害意を持つ者が現われる可能性は随分低いことになる。それが分かっただけでも収穫だ。
では、俺が鍵の開いている部屋のドアを開けようとしたときに、緑青剣が警戒したのは何だったのだろう。
考え込む俺を、自分の言葉に納得してもらえたと思ったのだろうか。オッサンは「若さだねぇ」などと笑い、満足げに頷くのである。
「うんうん、まぁいいさ。何を信じるかは人それぞれ。誰しも自分の興味のあることしか興味を持たないものだよ」
家内も似たようなモノだ、自分の興味のあるものこそが世界の掟だと思っている。昔はもっと物わかりが良かったのだが。
そう言って肩を竦めてみせるのだ。
「見て見るかね。コレがわたしの家族だ」
スマホが充電切れで待ち受けが見せられなくて残念だが、と前置きして見せてくれた写真には一人の男性と中年の女性、そして中学生と思しき少女が写っていた。
「この男性はどなたです」
「何を言っている、わたしだよわたし」
一瞬の空白が在った。
然る後に愕然とした。
思わず目を見張り、写真とオッサンを二度見、いや三度見はした。
何しろ写真の中のガリガリに痩せて顔色の悪い男性と、目の前の丸々と肥えて血色の良い男性とでは似ても似つかなかったからだ。
例えるなら、減量中のボクサーと、満漢全席を平らげた直後の相撲取り。
あるいはカスっカスに干からびた干し大根と、採れたての特大桜島大根だろうか。
「まぁ、この階段で彷徨う内にちょっと肥えはしたから、多少変わっているかもしれんが」
いやコレは多少どころではない。ほとんど肉体変換、別人28号な変わりっぷりである。
つまりこのオッサンはここで様々なものを拾い食いする内に、ぽってぽてに太りまくったというコトらしい。提供される食事は相当にハイカロリーのようだ。
あるいは、食事の量と回数が普通じゃないのかも。
「ここから出たら健康診断受けた方がいいと思いますよ」
そう助言せずには居られなかった。
取敢えず一階ダケが続くのでは無いらしいので、二階を目指すと言ったらオッサンは案内しようと言い出した。
ただ登るだけなので案内もへったくれもないのだが、どうも話し相手に飢えているらしい。好意には違いないので、まぁいいかと受け取ることにした。
「確かに誰しもが世界の不思議を探求したいと考えて居る訳じゃない。平々凡々で在り来たりな生活で満足したいと思っている者は少なく無いからね」
惑い無く登る足取りは確かだが、語る口調は淡々としていた。
「家内もきみと似たようなコトを言って居たよ。現実を受け容れろ、何時までも学士気取りで居るな、もっと仕事に身を入れろ、探究心とやらでメシが食えるか、とね。
実に夢が無い。日々の稼ぎしか見えないようでは味気ないじゃないか。人は夢があってこそ生きられるというのに」
「でも仕事が無ければおカネは稼げませんし、メシを食うことも出来ません。人並みの生活や、その他モロモロが手に入るのも稼ぎあってこその話です」
「それもまた真理だ。だがプラスアルファが在ってもよくはないかね。わたしもこの場の謎を解き明かし、それを論文として書き上げる事が出来れば、稼ぎにも幾分色を付けられるのではないか。そう考えて居る。
研究者として名を馳せることが出来れば、会社からも一目置かれるようになるだろう。それを足がかりに、更なるステップアップを目指す事も可能だ」
「……」
取らぬ狸の皮算用だなと思った。仮定の上に仮定を積み重ねたタダの妄想である。このオッサンは目の前の不思議体験に中てられて、のぼせ上がっているだけに過ぎない。
このマンションはそんな仕事の箔付け気分で挑んでよい代物じゃあない。油断すればあっと言う間に怪しい因果に呑み込まれて消息不明。全部無かったことにされて終いなのである。
後に残った者に思い出してもらえる事すらないのだ。
他の怪しい出来事は知らないけれど、たぶん似たり寄ったりの結末が待っているんじゃなかろうか。非日常ってヤツは、日常では手に負えないからこそ非日常なのである。
とは言うもののその口の下、俺はマンション出入りの度に非日常とチャンチャンバラバラやりながら会社勤めをやっている。こんな自分では説得力皆無なのかも知れない。
二〇階分は登っただろうか。「一休みしよう」とオッサンは言って階段に腰を下ろした。
俺もいい加減喉が渇いて、バックパックに入れっぱなしのペットボトルのお茶を口にした。帰ってくる途中コンビニで買ったやつだ。この階段に入り込んで拾ったものじゃない。ソレは封を開けないまま仕舞ってある。
こんなおかしげな状況で用意されたモノには、普通じゃない対価が、ナニか怪しい約束事がくっついてそうな気がしたからだ。
だが、コレが尽きたら手を出さざるを得ないんだろう。
さて、ソレまでに此処から抜け出すコトが出来るだろうか。
少しの雑談の後、「じゃあ登るか」と腰を上げた瞬間である。何かがスラックスを引っ張った。何かに引っかけたのかと足元を見れば、白く細い手が階段の陰から伸びて来てその裾を掴んでいたのだ。
それはしなやかで艶めかしい、女性の指先だった。
「!」
咄嗟に緑青剣を抜く。いや、抜こうとして止めた。
柄に手をかけた途端、するりと指が離れて階段の反対側、俺の死角に消えて行ったからだ。
直ぐさま回り込んで覗き込む。
だがソコには何も居なかった。がらんとした人気のない階段が階下に向けて伸びているダケなのである。
すでに踊り場を通り抜けて更に下へと降りたのだろうか。だがソレにしてはちょっと早すぎだろう。逃げ去る後ろ姿どころか影すら見かけなかったのだ。まさに忽然と消えて失せたというのが正しい。
何だ、今のは。
訳が分からない。幻でないのは確かだ。引っ張られた感触はまだ確かに残って居る。俺に何かを仕掛けるつもりだったのか。
だがそれなら、あんなにアッサリ離したりしないだろう。完全に油断していたし、足首を掴んで引きずり回すことも出来たはず。
……ひょっとして、俺が上に行こうとしたのを止めた……のか?
だとしたらいったい何、いや……誰が。
普通じゃないなのは間違いないのだけれど。
一人考え込んでいると、上の方から「おーい、来てみろ」と妙に浮かれたオッサンの声が聞こえた。
「こいつはまた大盤振る舞いじゃないか」
廊下にはテーブルクロスが掛けられたガーデンテーブルが据えられていて、その上には厚切りのステーキとカゴに入れられたロールパン、そしてワインとワイングラスが置かれていた。
そして折りたたみのガーデンチェアが二脚、差し向かいで用意されているのである。
「焼きたてだぞ。冷える前に食おう」
「……今までこんなコトがありましたか」
「いやこんな豪勢なのは初めてだよ。料理もちょうど二人前用意されているし、おお、このワインも意外に年代物だ。誰だか知らないが太っ腹な。案外、きみが迷い込んで来た事への歓迎の意味かもしれんぞ」
オッサンはやたらとはしゃいで居たが俺はそれどころじゃ無かった。
うなじの毛がゾワゾワと逆立つ。周囲の温度が一、二度下がったような感触。長居してはいけないと、肌が張り詰める予兆が在った。
「座ってはいけません。直ぐに此処を離れましょう」
俺は緑青剣の柄に手をかけていた。
「おいおい何でソコで腰のモノを抜くんだい。イキり過ぎだ、考え過ぎだって。今まで何もなかったんだ。その物騒なモノをしまえよ」
俺の制止など何処吹く風。丸顔に伸び放題のヒゲを生やした男は「よっこらしょ」と椅子に腰を下ろし、性が無いなといった風情で窘めるのだ。
まるで駄々をこねる子供をあやすような物言いである。その様に焦れた。
分かって欲しい、コレは浮かれていい場面じゃあない。上手く説明出来ないけれどヤバいんですよ。急いて彼に自分の不安を訴えるのだ。
なのに目の前の御仁は、俺の気持ちなんてまるで頓着しないのである。
「そんな剣呑な顔するな。わたしが保証するよ、コレは問題無い。大丈夫だ」
そんなコトを宣い、ドンと胸まで叩いて見せた。自信満々、自分が重ねた経験が根拠なのだと胸を張る。疑問に思う様子なんて微塵も無かった。
確かに今までは何も無かったろう。でも今この瞬間が大丈夫だなんて保証は無い。コレが意図的なのは確かだ。顔も見せない相手からの無料奉仕だなんて怪し過ぎる。
今の俺たちはまさに、抜け出すコトの出来ない階段に捕われている。ソコに何故食事だけが提供されるんだろう。助けてくれるというのなら、ここから出るための何かを助言したり、一緒に考えたりしてくれても良さそうなものだ。
別の思惑があるって考える方が自然なんじゃないのか。
そもそも、これまで食事以外何もなかったのはどういうことだ。警戒心を緩めさせるため?
いや、ソレにしては一ヶ月以上というのはまどろっこしすぎだ。むしろ出されたモノを食べてもらうのが目的。そう考えれば筋は通る。
でも、何の為に。
スーパーの試食コーナーで無償で提供するのは、同じ商品を買ってもらうため。
食べ物をバラ巻くというのなら、動物を呼んだり集めたりする場合もそうか。
公園の野鳥にエサをやる人は居る。でも俺たちは食べ物に釣られてやって来た訳じゃない。むしろ階段から出られない、捕われた状態で。
「……」
捕われた動物にエサをやる行為、普通それを家畜って呼ぶ。動物を飼うのは色々な理由が在るけれど一番シンプルな目的は、太らせて食べる為、だ。
先ほど見せてもらった写真のオッサン、それは別人かと見紛うほどにガリガリだった。そして獲物は痩せ細っているよりも、ふんだんに食事をして血色よい方が余程に……
目の前では、ころころと太ったオッサンがニコニコ顔でステーキにナイフを入れて居る。その丸顔を見た途端、背筋に怖気が走った。
「食べてはいけませんっ。早く此処から離れましょう!」
「おいおい、コレを前にして何を言い出す。大丈夫だよ、何ともないさ。それに出されたモノを袖にしたら逆に失礼だろう」
いや、俺はそうは思わない。
「コレはタダの餌なのではありませんか?椅子とテーブルが据えられているというコトは此処から動いてもらったら困る、そういう意図があるのでは?」
「トガリ過ぎだって。世の中には剣呑な連中も多いがボランティアの精神もまた少なく無い。困った者にほどこしをするのは美しい行為だと、そう信じる人達も多いんだ。
よく考えてみろ、カネをせしめるつもりならとうにやっている。困らせるつもりなら、端からこんなもてなしなんてしない。そもそも何故今更なんだ。理由が無いし全然筋が通らないだろう」
理由は今のあなたの体型では。
今こそ待ちに待ったときが来たと、そういうコトでは?
あるいは獲物が増えた、俺がここに紛れ込んだことも理由なのかも……
率直に言うべきなのかどうか迷った。特に親しいとは言えない相手に不躾ではないかと、自分がその理由かも知れないと気後れしてしまったからだ。
「さ、無粋なモノをしまって早く座れ。何度も言わせるなよ。ああ、この匂い、たまらんなぁ。こんな上肉、久しぶりだよ」
「駄目ですって!」
俺が声を荒げその手を取ろうとした。
そしてオッサンのすぐ後ろに在るドアが、カチャリと音を立てて開くのはほぼ同時だった。




