鼻の下は見えにくい 1
バタンっと、大きな音を立てて、扉が開いた。
ナルは、イスに座ったまま、そちらに視線を向ける。
セラフィーナが怒った顔で、扉を今度はバンッと閉めた。
そして、ツカツカとナルのほうへと歩いてくる。
「ナルのせいで、酷いことになったわ!」
「私のせい? それは、なぜでしょう?」
「明日、あの人と夕食をとることになったからよ!」
「それが、どうして私のせいなのですか?」
ネイサンとの会話を、セラフィーナがうまくやり過ごすことができるとは、ナルも思ってはいなかった。
わざわざ訪ねてきたくらいだ。
ネイサンは「土産」を持って帰りたがる。
セラフィーナは、まんまとネイサンにしてやられたに違いない。
夕食の誘いを断れず、承諾してしまったようだ。
今さら撤回もできなくて怒り心頭となっている。
セラフィーナは、ネイサンとの婚姻なんて望んではいない。
当然に、ベッドをともにする気だってないだろうし。
「ナルの言う通りにしてしまったばっかりに、あの人に、興味を持たれたじゃない!」
「夜会で大恥をかいたほうが良かったとでも?」
「あの人と夜を過ごすことを思えば、マシだったかもしれないわね!」
言いがかりもいいところだった。
ナルは、あの時、セラフィーナを、確かに助けたのだ。
ああでもしなければ、彼女は大勢の貴族の前で恥をかいていた。
なにしろセラフィーナがまともに踊れるダンスはワルツだけなのだから。
とはいえ、ネイサンが、ここまで興味を示してくるとは、ナルにも予想外。
夜会の日には、思ってもいなかったのだ。
少し「やり過ぎた」かもしれない。
ネイサンの自己顕示欲をくすぐり、優越感を満たす。
ほんの少し意識しただけのつもりだったが、想定以上だったらしい。
ネイサンが、急にセラフィーナを正当な「正妻候補」に格上げしてきたのには、ほかにも理由がある。
だとしても、興味がない女性であれば、入れ込みはしなかったはずだ。
連れて歩くことが憚られる相手を、ネイサンは、けして選びはしない。
セラフィーナが「洗練されている」と認めたからこそ、考えを改める気になったのだろう。
(そう考えると、私のせいだと言えなくもありませんが)
ナルは、セラフィーナの怒りに燃えた瞳を、まっすぐに見つめる。
彼女を相手にしていると、どうにも具合が悪い。
予定が予定通りに進まず、計画変更をしてばかりいた。
そして、最も手こずっているのは、ナル自身の心情の揺らぎだ。
冷静さを保つ「努力」を、常に迫られている。
自制心には自信があったし、表情を作ることも得意だった。
そうでなければ、魔術師などやってはいられない。
にもかかわらず、すぐに自制が崩れそうになるのだ。
しかも、それをセラフィーナに、薄々、感づかれている。
実に、彼女は憎たらしい。
怒りをぶちまけてくる姿にさえ、ナルは感情を揺さぶられている。
立ち上がって、セラフィーナを抱きすくめたくなっていた。
さりとて、ナルには、そうできない理由がある。
うかうかと彼女の魅力に屈することはできないのだ。
「夜を過ごすとは、いささか大袈裟ですね。夕食に招かれただけではないですか」
「夕食だけですむなんて、本気で思っているの?!」
「あなたが、うまくかわせば夕食だけですませられますよ」
しっかり教育を受けた令嬢であれば、そのくらいは簡単にできる。
男性に引き留める隙を与えず、夕食をすませて、さようなら、だ。
男性側も強引に部屋に引き込むような真似は、なかなかできない。
力づくでしか言うことを聞かせられないのは、魅力のなさを露呈するも同然。
恰好が悪く、みっともないことなのだ。
「それができるくらいなら、夕食だって断ったわよ!」
「でしょうね」
ナルの言葉に、セラフィーナが目を見開く。
その瞳に、少しばかり傷ついたというような色がよぎった。
「……わかってて、助けてくれなかったの?」
「夕食に誘われるとは思っていませんでしたが、駆け引きの結果には想像がついていましたよ。あなたには荷が重そうだとはね」
淡々とした口調で、言う。
ネイサンとの駆け引きに、セラフィーナが負けることは、わかっていた。
なにかしらの約束なり条件なりを承諾させられるだろうと、予測していたのだ。
彼女は、もとより「駆け引き」が下手なので。
ナルは、ゆっくりとイスから立ち上がる。
セラフィーナの茶色い瞳を、じっと見つめた。
セラフィーナもナルを見上げ、視線をそらさずにいる。
彼女は、まだ膝を屈しようとはしていない。
負けず嫌いで意地っ張りで、頑固者。
貴族令嬢として振る舞っている時よりも、ずっと魅力的だった。
教える立場であるにもかかわらず、そう感じる。
素のままのセラフィーナらしさに、ナルは惹かれてしまうのだ。
「私に、なにか言いたいことが、あるのではないですか?」
手を伸ばし、セラフィーナの頬にふれたくなるのを我慢する。
ほの赤い唇に視線を向けたくなるのも、堪えた。
ひたすら、セラフィーナの瞳を見つめ続ける。
「言ってみなさい」
視界の端に、セラフィーナの喉が上下するのが映った。
その白くて細い首筋の感触も、唇で確かめたくなる。
セラフィーナは、ナルが、そんなふうに思っているなんて、気づいてもいないのだろうけれども。
「……なにを言えっていうの?」
セラフィーナの戸惑った口調に、ナルは我に返った。
これだから、具合が悪いのだ。
セラフィーナは、己の魅力に無頓着に過ぎる。
ナルを信用し過ぎているのも問題だった。
無防備さを晒しても、なんとも思わずにいる。
「教えてください、と」
セラフィーナが、数回、瞬きをした。
たちまち瞳の中の揺らぎが消える。
セラフィーナも我に返ったようだ。
「もういい……もういいわ!! あなたに教え乞うなんてごめんよッ!」
ナルは教育係であり、セラフィーナは教えを乞う立場ではある。
さりとて、彼女は初日から、1度だってナルに「教えてほしい」と言ったことはなかった。
教育係のナルが教えるのはあたり前という態度を取ってきている。
「そんなことを言うくらいなら、あの人とベッドをともにしたほうが……っ……」
自制心を働かせ、冷静さを保とうとはした。
が、ナルはセラフィーナの言葉に、カッとなっている。
反射的に、彼女の腕を掴んでいた。




