鼻の下は見えにくい 2
ナルの瞳に、怒りが見える。
初めてのことに、セラフィーナは驚いていた。
言葉も途中切れになり、続けられずにいる。
「それが、どういうことか、わかっていて、言っているのでしょうね?」
声も冷ややかで、戸惑ってしまう。
ナルはたいてい淡々とした口調だし、そっけないことも多かった。
意地悪で嫌味で、皮肉っぽい。
けれど、こんな冷たさを感じたのは初めてだ。
どう答えればいいのかすらわからず、セラフィーナは黙り込む。
「男性とベッドをともにするということが、どういうことか、知っているのか、と聞いているのですよ?」
どうしようと、思った。
本気で、ナルは怒っている。
(でも……あんなのいつものことじゃない……なんで、こんなに怒るの……?)
セラフィーナには、ナルの怒りの原因がわからない。
自分がなにを、しくじったのかにも、思い至らなかった。
とはいえ、ナルが怒っているのは、わかる。
「あなたは、好ましいと思ってもいない男に、身を委ねられるのですか?」
本気で言ったわけではないし、ナルだって気づいているはずだ。
常に、頭の中を見透かすように、ナルはセラフィーナの心を読んできた。
そんなナルが、本気の言葉かどうかもわからないとは、思えずにいる。
「…………わからないわ……」
ナルの問いに対しての言葉ではなかった。
ナルがどうして怒っているのかがわからない。
その気持ちが口をついて出ただけだ。
セラフィーナからすれば、ベッド云々については本気ではなかったので耳を通り抜けている。
ナルの眉が、ついっと上がる。
瞳にも冷たさが宿っていた。
よくわからないが、ますますナルを怒らせたらしい。
セラフィーナは戸惑いを通り越して、内心では、慌てふためいている。
どうしよう、という気持ちしか浮かんでこなかった。
「いいでしょう」
握られた手が痛い。
それほど強く握られていたからだ。
その手を、ナルに引っ張られる。
引きずられるようにして、歩かされた。
「教えを乞われてはいませんが、教育係として教えてさしあげます」
掴まれていた手が振りほどかれる。
同時に、ソファに、ドサッと体が横倒しに放り出された。
驚いてナルを見上げる。
見下ろしてくる瞳に、さらに驚き、セラフィーナは固まった。
心臓だけが、どくどくと音を立てている。
ナルの真剣なまなざしに、身動きできなかったのだ。
本気で自分を求めているような瞳。
駆け引きの時と同じで、きっと偽物に違いない。
ナルは、表情も含め「作る」のがうまいと知っている。
自分が取り乱したのを見たら、嫌味を言うつもりなのだ。
おそらく。
言い聞かせてみても、鼓動は落ち着くどころか速まるいっぽうだった。
動けずにいるセラフィーナに、ナルが近づく。
体をかがめ、腕の中にセラフィーナを閉じ込めていた。
「うまくかわせなければ……あなたは、私のものになるしかありませんよ?」
わずかに、かすれた声。
まるで「本物」だ。
ダークグリーンの瞳にも、欲がちらついている。
心まで持っていかれそうな深い緑に、セラフィーナは見惚れていた。
そんな場合でもないのに。
「いいのですか?」
良いも悪いもない。
もとより、うまくかわすなんて高等技術は身につけていなかった。
駆け引きだって、ナルの「補助」なしでは、まともにできずにいるのだ。
男性から、本気で迫られたこともない。
対処のしようがなかった。
だいたい、セラフィーナは嫌だと感じていない。
体が固まっていなければ、ナルを抱きしめていただろう。
頭の片隅では、ちょっぴりナルにふれてみたいと思っている。
ダンスでわざと転んだ時や、駆け引きの実践の時のように、ナルから、ふれられたくもあった。
うっかり、その気にさせられてしまったことも、すでに頭から飛んでいる。
ナルが本気かどうか、疑うことも忘れていた。
ナルの手が、セラフィーナの頬にふれる。
ダンス練習の際と同じく、暖かかった。
けれど、前とは違い、居心地が悪い気分にはならない。
頬を撫でてくる手や指の感触が心地良いと感じる。
ナルが体を倒し、セラフィーナに顔を近づけてくる。
口づけをされるのかもしれない。
思ったけれど、避けなかった。
むしろ、瞳を閉じて、ナルの唇を待つ。
が、唇ではなく、耳元に唇が寄せられた。
心臓を、ばくばくさせているセラフィーナに、ナルが囁く。
「あなたの頭に、ピーマンが詰まっているというのは、本当のようですね」
え?と、目を開いた。
耳元に顔を寄せているナルの表情は見えない。
「あなたに、こうするのは“彼”なのですよ?」
瞬間、ネイサンの、ねっとりとした視線を思い出す。
ゾッという悪寒が体に走った。
頭で考えるより先、ナルの体を突き飛ばす。
怒りなのか恐怖なのか、全身が震えていた。
突き飛ばされてもナルは、さして、動いてはいない。
わずかに体が離れた程度だ。
自分の力では、男性を押しのけることすらできないと悟る。
所詮、女性は男性には勝てないのだと思い知っているセラフィーナから、ナルが離れていた。
「簡単に、ベッドをともにする、などと言うものではないと、わかりましたか?」
冷たく言い放つナルに、セラフィーナは唇を噛む。
また、いいようにあしらわれてしまった。
腹も立っていたが、それよりも胸の奥がチリチリと痛む。
「正妻選びの日まで、体を許すことのないよう、明日の夕食をどうすればいいか、そのピーマンが詰まっている頭に、詰め込んでいただきます」
ナルの声は、いつものものに戻っていた。
あっさり心に踏み込まれてしまったことを、セラフィーナは激しく悔やんでいる。




