夢恋路 ~青年編~23
【桂小五郎】
江戸よりは幾分治安がいいから、そう思って連れ出したけど、離れて歩くのは少し心配で、僕は姉さんの手を取った。
姉さんは僕を見上げてきたけど、僕は何も言わず、笑って返す。
言葉にする必要がない気持ちってのもあるんだと思うから。
姉さんも笑って握り返してくれた。それだけで通じ合っているように思えるのは思い過ごしなのかな・・・
川に降りる石段に僕達は腰を下ろして欠けた月を見上げて、僕は、あの弧の内側に座ることはできないのだろうかと、ちょっと考えてみた。あそこから見下ろすこの世界は一体どんな様なんだろう・・・僕達なんてとってもちっちゃいんだろうな。
姉さんはどんな思いで、この月を見ているかな。
「みんなが心配なの・・・私のせいで、運命が変わってしまっていないか・・・」
姉さんはあまりに多くの事を知っている。
でもその事を口にすることもできず、変える事も出来ず、苦しんでいる。
刀で、愛する人を奪われると言う、恐ろしい経験もしている。
「晋作君や宗次郎君が心配なの・・・」
「宗次郎の運命については、有名なんだったよね。」
ちょっとだけ聞いた、長くは生きられないんだって・・・
「えぇ、そう。」
「晋作についても、何か知っているの・・・?」
晋作の運命・・・
「いいえ、知らない・・・」
それは、本当なのだろうか・・・
「晋作君については、名前ぐらいしか知らなかったわ。名前はきっと私の時代の人達はみな聞いたことがあると思うの、でも、その他は私はほとんど知らない。たまたまあなたを調べた時に長州の出たと言う事ぐらいは知ったけれど、でも、それ以外は知らないわ。だからもし、晋作君に何かあったとしても、それが歴史通りなのか、違うのかがわからない・・・」
姉さんは、もう少し何かを知っているんだと思う。
でも、それは多分、僕も聞きたくない事で、姉さんも口にしたくない・・・現実なんだと思う。
「ねぇ、姉さん・・・」
「なぁに・・・?」
僕は姉さんの肩を抱いて引き寄せて、こんな事で姉さんの抱えている物が軽くなるとは思わないけれど、今だけでも、軽くしてあげたい。
「きっと、姉さんがここにいる事は運命の一つなんだよ。僕と出会う事も運命の一つ。姉さんの存在が先の世で表に出るか出ないかは別として、宗次郎の事も晋作の事も、何が起こってもそれが運命なんだ。だったら、少しでも楽しく毎日を過ごしたいって、そう思わない?」
僕は歯を見せて笑った。
「姉さんの時代から考えれば僕達の命なんて短いのかもしれない、でも、僕はそれを決して不幸だなんて思わない。そりゃ、長く生きて、姉さんと少しでも一緒にいたいとは思うよ?でも、そうじゃないって事は、姉さんもきっとわかってる。」
「そうね。」
時の長さじゃなくって重さ、色の濃さが本当の豊かさなんだって事、姉さんはちゃんとわかってる。
「それに、晋作が簡単に死ぬわけないじゃん!」
「そうだよね!」
姉さんの笑顔を見て、僕は仰向けになって両手を伸ばした。
「・・・さっきね、あの月のあの弧の内側に乗る事が出来て、この世界を見る事が出来たら一体どんな風に見えるかなって考えてたんだ。きっと日本は小っちゃくって、僕も小っちゃくって、僕達の争いなんてとっても小さくって・・・どうせ小さな存在の1つなら、だったら、考えている事だけどもでっかくありたいなって思ったんだ。僕はこの国を変えて、この世界を変えて、姉さんをずっとずっと守る!そのくらいの大口叩かせてよ。」
今日藩のみんなと話してきた。
僕のこの、一人の愛しい人を守りたいと言う自分勝手な思いから始まった志は意外にも大きな一石となりそうで、隊士たちのくすぶっていた鬱積した物に火を付けそうだ。
時代は本当に、動くのかもしれない。
すると突然、姉さんが僕に覆いかぶさって来て・・・僕に口付けをした。
驚いて、僕は僕を見下ろしている姉さんを見上げて・・・姉さんは笑っていた。
「ねぇ、英語、覚えてみる?」
・・・英語?
イングリッシュだよね・・・?
どうして突然?
「どうしてって、思った?」
うん、思った・・・
「世界を変えるのに、必要だからよ?」
世界を変えるのに・・・?
「大口をたたくだけなら誰でもできる、でもその大口を現実にできるのは、限られた者だけ。あなたはその限られた者になるの。そんなあなたに私ができることといったら、私のここにある物を提供する事。」
そう言って姉さんは自分の頭をとんとんと指さした。
この仕草、過去にも何度か見たな・・・
「ハリスやヒュースケンと話が出来なければ、世界は動かない。」
そう言って姉さんは座ると、歌を歌い始めた。
でもその歌は・・・異国語だった。
I'm on the top of the world lookin' down on creation
And the only explanation I can find
Is the love that I've found ever since you've been around
Your love's put me at the top of the world
「あぁ、舌噛みそう。」
そう言って姉さんが笑う。
「これは、イングリッシュなの?」
「えぇ、そうよ。Top of the world って言うとっても有名な曲、Top of the world の意味はわかる?」
「わからない・・・」
「世界のてっぺんって意味よ。」
世界のてっぺん・・・日本じゃなくて・・・世界の・・・・・・
「歌詞はね、愛するあなたに出会えて、世界がとっても希望に満ちて、まるで世界のてっぺんに上った様で、明日も明後日も永遠にあなたと愛し合いたいって・・・まぁ、愛の歌よね。」
それが、姉さんの気持ちなら嬉しいって、僕は思った。
「どう?桂先生、すこーし齧って見ますか?」
「ぜひ、お願いします。」
「sure!」
「・・・なんて?」
「かしこまりました、よ。」
「こちらこそ!」
「秘密の授業になりそうね。」
姉さんと二人きりの秘密がまた一つ増えた、それは僕にとってはとっても喜ばしい事で、明日への希望になるんだ。
【おリョウ】
最近めっきり育児放棄なハルちゃんは彦ちゃんを私に押し当てて、もはや誰の子で誰が親だか良くわからないことになっていた・・・
寒い日本海の冬だと言うのにこの家はとっても温かくて、毎日笑いが溢れていて、いつのまにか江戸での事なんて忘れていた・・・白糸に合わせた馬具もあとは春を待つだけで、きっと畑仕事も私の仕事になるんでしょうね。
小五郎も藩務で忙しいみたいで毎日のように帰りが遅くなっている。
いよいよ、明治に向かって進み始めるのかもしれない。
たまに休みがもらえると昼過ぎまで寝ているから、本当に疲れているんだと思う。私も彦ちゃんを背負いながら炊事洗濯にパタパタしているから、小五郎とはもう何日もまともな会話はできていない。でも、それはこれからの事を思えば慣れなければならない事。
小五郎を支える事が今の私の一番の仕事だから。
幾松さんに会うまでは・・・
「姉さんおはよう・・・」
「あら、おはよう。」
消え去りそうな寝ぼけた声で昼頃に起きてきた小五郎は、明らかに二日酔い。
「休みならまだ寝ていたら?」
「いや・・・なんか、」
「なんか?」
何だか照れてるように見えるのは、何でかしら?
「その、最近姉さんとあんまり、話してないなって・・・」
あら。
一応気にしてたんだ。
「だから、その・・・」
今ちょうど彦ちゃんはハルちゃんと一緒にお昼寝だから、お散歩ぐらい行けるかな?
「じゃぁ、久しぶりに白糸と出て見ようか。時間はまだたくさんありそうだしね。」
そう言って立ち上がるも、ふと横を見て、笑ってしまった。
「歩けるの?」
「微妙。」
そう言って小五郎は笑った。
「じゃぁ、いつもの河原までね。今日は冷えるから、二日酔いさんは上着をちゃんと選んでよ?」
小五郎は上着を取りに、私は白糸に無口と形程度の綱を付けて玄関に向かった。
外は目が覚めるような寒さで、でも二日酔いの小五郎は気持ちよさそう。
まぁ、だろうね。
久しぶりのお散歩に白糸はとても機嫌が良いようで、私達を置いて行かんとばかりに先に歩いていた。
「ちょっとぉ、白糸。そんなに早く歩いたらお父さんがかわいそうよ?」
「久しぶりだからね、嬉しいのかな。」
「そうでしょうね。」
私達の娘はいつの間にか器量のいい大人しい娘になっている、神経質で怒りっぽかったあの白糸はどこへ行ったのだろう?
私達はいつもの石段に腰を下ろし、小五郎はすぐに仰向け、白糸は河原でわずかに生えている草を食む・・・まぁね、みんなバラバラ。でもそれが私達らしくって良いのよね。
「もうじき年が変わるわね。」
「そうだね、」
そんな会話しかしなかったけれど、それでも構わなかった。
それでも、十分。
「あのね、姉さん・・・」
「なぁに?」
小五郎は仰向けになったままぼーっと空を見上げて私を呼ぶ。どこか遠くの、そうね、未来でも見ているかのような目で・・・
「僕の事、信じてくれる・・・?」
「内容によるわよ?」
私はわざと、そう言って笑う。
すると小五郎はクスリと笑って目を閉じた。
「だよねぇ。」
「えぇ、もちろん。」
私は改めて小五郎を見る。
「女から信用を買うのは大変よ?」
こうやってわざと小五郎をからかうのが、私らしい。
「例えどんなに遠回りをしても、どんなに争いが起こっても、例え誰かに追われ身なっても、どこにいても・・・僕は必ず姉さんの所に帰って来るし、必ず刀のない、姉さんのいた未来を創る。そのためには、姉さんの身の安全を考えると、僕達の思想は知らない方が良いと思う。これから先僕はもっともっと人気者になるはずだからね。」
えぇ、知ってる・・・
「人気者は辛いわねぇ。」
「本当に。」
小五郎は笑って両手を頭上に伸ばした。
「絶対に剣を抜かない、絶対に人を斬らない、絶対に・・・死んだりしない。」
その絶対が、私のせいで崩れる事が・・・今は何より恐ろしい。
「こんな風に一緒にいられる時間は少なくなると思う・・・でも、絶対に生きて帰って来るから・・・僕の事、信じてくれる?」
現世と呼ばれる未来の世にこんなに素直に自分の気持ちを口にできる子なんてきっといない。
見えないいろんなものに縛られて前後左右上下に常に気を向けて生きていかなければならない現世の人達はいつの間にか自分の気持ちをごまかすことがうまくなり、平気で嘘がつけるようになっている。そしていつの間にか表現できなくなっている。
この子の言葉は真っ直ぐで、心から私を必要としてくれている、そして、愛してくれている。それがちゃんと伝わる。
私はこの子を守らなくてはいけない・・・
私は小五郎の横に、同じように仰向けになった。
帯を大人しめに結ってきて正解ね。
そんな私に小五郎が目を丸くして驚いた顔をしている。
そりゃそうよね、白昼堂々こんなはしたないことする女は何もわからない十代の若い娘か、私ぐらいでしょ?
「何言ってんのよ、私はあなたの婚約者でしょ?夫となる男を信じないなんて、そんなことあるわけないじゃない。」
私達の顔は、額が当たるほどに近い。
「あなたの帰って来る場所は私が必ず守ります。だからどうぞ、お好きなだけ遊んでらして?」
【桂小五郎】
こんなに強い女はきっといない。
ハルなんて比じゃない。
僕はきっとこの人じゃなきゃダメで、この人だからこそ、この志を成し遂げようと思う。
僕達の、長州の持つ志・・・討幕。
それは少なからず、姉さんが望む平和的なものではない。
でも、その中でも僕は、平和的な解決に導けるように尽力を尽くすから・・・笑って、待っていてくれるかな。
僕の泣き言を、笑い飛ばしてくれるかな。
僕は、姉さんの手を取った。
二人して冬空の中、川岸で仰向けになって、でも不思議と寒く無くて・・・姉さんの手は少し冷たいかな?
・・・そっか、僕、二日酔いだから寒くないんだ。
そんな事を思っていたら・・・あれ?
「雪、だね・・・」
空から落ちてくる白いふわふわしたもの。
「雪ね・・・」
僕達の上に降って来る雪は大きくて、まるで鳥の羽の様にふわふわとゆっくり落ちてくる。
「積もりそうね。」
「そうだね。」
僕達はしばらく、僕達の上に降り積もるその雪をじっと見ていた。
「帰ろうか。」
僕は起き上がって姉さんの手を引く。
「おーい、白糸!帰るよ~!!」
僕の声にちょっと遠くまで行っていた白糸が小走りで帰って来た。
うん、利口な馬だ。
この馬も姉さんと出会って運命が変わった者の一人。
神様、あなたが姉さんをこの時代に連れて来て下さった事に感謝します。
僕はあなたが導く様に何でもします。
だから・・・
お願いです。
姉さんを連れて行かないで。
【ハル】
はっくしょん。
「ちょっと!お姉ちゃん!!!」
「はい。」
「何でこの男は風邪をひいてるの!」
「さぁ、何でかしら。」
そりゃぁ、二日酔いの状態であんな寒い川辺で仰向けになって雪に降られていたら、風邪ぐらい引くかもね。
私は笑って、横にいる小五郎を見上げた。
「何か思い当たる?小五郎、」
「・・・いいえ。」
神妙な面持ちの小五郎に私は思わず吹き出した。
「もぉ!子供にうつったらどーすんの!!」
「じゃぁこの男は監禁ね。」
「えぇぇ!?」
「そもそも!医者の子が風邪なんてひかないでよ!!!」
「そうねぇ、んじゃ、恥ずかしいからちょっと片付けて来るわね。」
「ちょ!?えっ!?」
私は小五郎の背を押してその場を逃れた。
さすが、子を連れた母は強いわね。
年も変わって冬本番。
雪は何日も降り続けて、本州最南端のここ長州もあっという間に真っ白になって、白糸も冬仕様になった。
元気なのはハルちゃんと彦ちゃん、私は彦ちゃんと白糸と庭で雪遊びをしていた。
この時代特有なのかもしれないけれど、子供の成長は怖いくらいに早いもので・・・最近の彦ちゃんは一丁前に自分の意志を見せてくる。
「ちょっと彦ちゃん、壊さないでよ!」
さっきから何が面白いのか・・・私の作る雪だるまを横から壊しにかかる彦太郎。
やめいっ!
「ぬぁぁぁぁぁ!!!もう!!!」
「やれー彦太郎!!」
そうか、犯人はこの母親だな?
許さん!
「もぉ怒ったぞ!彦太郎!お前が雪だるまになれ!」
彦太郎を捕まえて雪の中で転がして、きゃっきゃと騒いでいたらいつのまにかお父さんやお弟子さんもやってきて立ち見が始まっていた。
すると小五郎が帰って来た。
小五郎はハルちゃん達と数言言葉を交わしたかと思うと着物のまま雪の中に飛び込んでくる。
おっと!参戦者が増えたぞ!?
「彦太郎!やっつけるぞ!」
小五郎はそう言って彦太郎を抱え上げ、雪の球を作って私に向かって投げさせた。
「あっ!ずるーい!!」
もちろん私の狙いは小五郎!
彦ちゃんに当てるのは・・・ねぇ。
するといつの間にかハルちゃんまで参戦!!四人と一頭で庭の雪はもう無茶苦茶で、でもまだ冬は始まったばかりで、こっちで過ごす二回目の冬は14年ぶりのはずなのに、遊びの内容もそろっている顔もあの時と一緒だった。
【桂父】
楽しそうな声がして中庭に出て見れは、お市が彦太郎と遊んでいる。
そして、馬がいる・・・
何て利口な馬だろうか・・・
ハルは廊下に腰を下ろして騒いでいる。
子供相手に容赦しないお市は・・・あの時のままだなぁ。
そして自分の子供を人に任せているハルは・・・母親にそっくりだ。
子供の笑い声なんてもう何十年聞いていなかったことか、懐かしくて思わず足を止めて見つめてしまった。
この光景には見覚えがある。
十数年前、お市がこの屋敷にいた時に全く同じ光景を見た。
見れば見るほど不思議な娘だ・・・お市は、あの時と何も変わっていない・・・
子供たちがこんなにも歳を取ったと言うのに、お市はまるで変わっていない・・・
あの時が十八で、今が三十二だとしてもここまで変わらないものだろうか?
まるでお市だけ、時間の動きが違う様だ・・・
声に引かれて内弟子の若いのまでがやってきたか、あぁあぁ、お市・・・彦太郎の事投げてるよ。
まぁ、母親と父親があれだから、強い子だろうが・・・
「ずいぶんと賑やかですね・・・」
ふと気が付けば小五郎が帰って来ている。
こいつもまた、お市が来てから家にばかりいるもんだ。
「見ての様だ、お市が怒って彦太郎を追い回しとる。」
「それはいくらなんでも彦太郎が不利ですね。」
「まぁなぁ、」
「それじゃ、助太刀しますか!」
そう言うなり小五郎は訪問用の袴のまま雪の中に飛び込んで行った。
やれやれ、体はあんなにでかいと言うのに・・・
「彦太郎!やっつけるぞ!」
「あっ!ずるーい!!」
雪玉の投げ合いが始まって、彦太郎がきゃっきゃと笑っている。
「私も行こっと!」
えっ!?
「おい!?」
言葉を発する間もなくハルまでも参戦した。
やれやれ、大の大人がこれじゃ子供は大変だ。
声を上げて笑い合って転がっている大きな子供と小さな子供、あいつらはこの歳になってもこんなにも笑うのか。
お市が来てからというもの、毎日が楽しくて仕方がない。
私がこんななのだから、こいつらはもっと楽しかろう。
お市の疲れた心も、少しは温まってくれるとええがのぉ・・・
【桂小五郎】
「待って!お雪ちゃん!!!」
姉さんの悲鳴に近い叫び声で僕は飛び起きた。
横には息を切らして布団から体を起こしている姉さんがいて、片手を額にあててうな垂れていた。
「夢、見たの・・・?」
「えぇ・・・」
毎日楽しくやっているけれど、やっぱりお雪の事は姉さんの胸に食い込んでいて・・・僕はこれが初めてじゃない事を知ってるんだ。声こそ上げた事はなかったけど、目を覚ましていた事・・・
その都度僕が目を覚ますと、きっと姉さんは部屋を分けて寝ようって言い出すと思ったからあえて気が付かないふり、してたんだ・・・
僕は姉さんをそっと抱き寄せる。
「大丈夫だよ・・・」
まるで数刻通しで稽古をしたかのように息が上がって、胸が強く打っている姉さんを僕はできるだけ静かになだめる。
すると戸の外に誰かがいる様な気がして、僕はその方に目をやった。
「小五郎、起きているか?」
父さんの声だった。
「開けるぞ・・・」
父さんは戸を開けてやって来て、未だに息の上がっている姉さんを見つめるとそっと湯呑を置いた。
「湯だ、できるだけゆっくり飲みなさい。」
前に父さんに相談したことがあった。
こんな時は、どうしたらいいのか・・・
出来るだけ落ち着かせて、姉さんから話をするのを待ちなさいって父さんは教えてくれた。
人に話せるようにならなければ、本当の意味で受け入れられたことにはならないって。
父さんは僕の肩に手を置いて立ち上がり、部屋を出て行った。
「飲む?」
湯呑を渡すと、姉さんは両手でそれを持ってゆっくり口を付けた。
その手は、震えていた・・・
「僕に、話して・・・?」
姉さんはしばらく湯呑を見つめていて、幾分呼吸が落ち着いた頃に、ゆっくり口を開いてくれた。
「真っ暗い中、どれだけ追いかけてもお雪ちゃんには追いつかなくて・・・呼んでも振り向いてはくれなくて・・・突然白い光が射したかと思うと・・・お雪が・・・」
僕は黙って、姉さんの言葉を聞いていた。
ただただ体が冷えてしまわない様に、抱いていた。
「お雪は笑っているの、着物を赤く染めて、それでも笑って私を見ているの・・・そして、私に・・・大好きだって・・・言うの・・・・・」
姉さんの声が、泣き声に変わった・・・
「大好きだと言って・・・私に手を振って・・・行ってしまうの・・・・」
僕はねえさんの手から湯呑をゆっくり受け取って、横に置く。
「行ってほしくなくて・・・・行かないでほしいのに・・・・お雪は行ってしまう・・・・・」
「そっか・・・」
僕は姉さんの顔を肩に寄せて、髪を撫でる。
こうなったのは僕の責任だから・・・僕はどこまでだって付き合うんだ。
でも・・・
こんなにずっと思いつめていては・・・姉さんは本当に壊れてしまう。
軽はずみなのかもしれないけれど、少しでも、心を軽くしてあげたい・・・
「お雪ちゃんは、笑ってるの・・・?」
「笑ってる・・・」
「そっか・・・」
姉さんの涙が、僕の肩を暖かく濡らしていく。
「お雪はきっと、本当に姉さんの事が好きだったんだね・・・」
お雪はきっと、何かを伝えたがっているんだ・・・
「ねぇ、姉さん?」
「・・・なぁに・・・」
「今度、お雪に笑てみない?」
「えっ・・・?」
「お雪にさ、笑ってあげてよ。」
姉さんはじっと僕を見つめた。
「でね、言ってほしいんだ。僕の所に行きなさいって。僕はまだお雪に返事をしてないから、聞きに行ってって。僕が、ちゃんと話をするから。」
姉さんは未だにじっと僕を見ている。
呼吸は、落ち着いたみたいだね・・・
「お雪に、笑ってあげてよ・・・姉さん。」
「・・・うん・・・」
ごめんね、こんな思いをさせちゃって・・・
湯呑を渡して、それを姉さんは再びゆっくり口に運んで、息を吐いた。
しばらくじっと目を細めて湯呑を見つめて、それから口元をゆるめて。
「ありがとう。」
そう、言ってくれた。
「ねぇ、一緒に寝よう?」
僕はできるだけいつも通りに笑う。
「そうしたら、お雪も僕の所に来やすいでしょ?」
クス・・・
姉さんが、笑った。
「そうね。」
僕は姉さんから湯呑を受け取って、僕達は一人用の布団で、くっつきあって眠った。




