無様
「すまん…」
何度謝っただろう。
「気にするな」
英之助は許してくれたが、眠りこけた小三郎が目を覚ましたのは、一刻(二時間)ばかり経ってからであった。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
英之助の膝の上で目を醒ました小三郎に、英之助が一言、
「夕餉を食べ損なったな」
と、言った。
英之助は怒ってはいなかったが、一緒に帰ろうと誘ってくれる顔を見ることが出来ず、少し酔いを醒ましてから帰る、と丁重に断った。
先に帰ってもらい、あとから茶屋を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
門限は酉の刻(午後六時)である。小三郎は急ぎ足で江戸屋敷に向かった。
走りながら小三郎は何度も自分に問いかけた。
なぜ、眠ってしまったのか。あれだけの酒で寝てしまうような弱い体ではなかったはずだ。
「すまん…英之助」
ひとりごちれば、空しさが身に沁みる。
立ち止まって空を仰ぐと、英之助に抱き寄せられ唇を塞がれた事を思い出した。とたん、全身を震えが走った。
思い出すだけで恥ずかしい。
壁に頭突きしてしまいたい気持ちに駆られる。
英之助の声や指先の触れると、妙に緊張して息をするのを忘れてしまう。
こんなぶざまな姿を英之助が見ているのかと思うと、たまらない気持ちになった。
「俺はなんて、なんて情けない男なのか……」
英之助が恋しくてたまらない。
離れると切に感じるのだが、いざ目の前にすると体は別の行動をする。
空の星が涙で滲んで見えなくなった。
ぐいっとこぶしで涙をこすり、再び歩き出す。
次こそ、本懐を遂げてみせる。この次こそは英之助を受け入れる、と小三郎は誓った。
自分自身を奮い立たせたが、しばらくすると知らずうちにため息が漏れた。
「はあ……」
何度目かのため息をついた時である。
横丁から提灯を持った男が現れた。
ちらと顔を見ると、英之助の守役、池上籐七であった。
小三郎より三つ上で、堅く引き締まった体と背筋の伸びた男である。顔は浅黒く岩のようにごつごつしていて、いつも怒ったような顔をしていた。
距離が縮まると、籐七は立ち止まった。そして、
「柴山、少し話してもいいか」
呼び止められた。
「うん、なんだ?」
小三郎は足を止めて首を傾げると、籐七は辺りに人のいないことを確認して声をひそめた。
「若さまのことだ」
「英之助がどうかしたか」
「うん。近頃、若さまの出費が嵩んでいて、家人が大変心配しておる」
「そうか……」
小三郎はひやりとした。
支払いはいつも英之助がしていた。英之助は旗本の息子である。工面していたとは思いも寄らなかった。
「気をつけるよう言っておくよ」
籐七はよほど心配していたのだろう、小三郎の言葉を聞いて安堵したように、肩の力を抜いた。
「よろしく頼む」
「うん」
「柴山」
「うん?」
籐七はさっと右、左に目を走らせてから人のいないことを再び確認した。
「若さまはいずれ江戸家老になられるお方だ。あまり不謹慎な遊びばかりしておると、誰に吹聴されるか分からんぞ」
不謹慎という言葉を聞いて、背筋が凍った。
なにも言えないでいると、籐七はあごをきゅっと引いて、
「御免」
と、言って去って行った。
小三郎はのろのろと歩き出した。
顔は白く蒼ざめたままである。そのとき、遠くの方で雷鳴が聞こえた。ぽつっと頬に雨の粒が落ちてきたかと思うと、小粒の雨が降りはじめた。
小三郎は雨を避けるのも忘れて夜道を歩いた。