9.同じ場所にいる二人
美鈴は、しばらく目を閉じたままだった。
白砂研究所の実験室には、古い機械の低い唸り声だけが響いている。
次郎は彼女の肩に手を置いた。
「美鈴さん。大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわ」
「ですよね」
「去年、私はここに来た。間違いない。あなたも一緒だった」
「僕にはまったく記憶がありません」
「私だって、ついさっきまで忘れていたのよ」
美鈴はゆっくり目を開けた。
「でも、思い出した。あなたがここで私に言った言葉も」
「何と言ったんです?」
美鈴は少し迷ってから答えた。
「『もし時間が戻るなら、君ともう一度出会いたい』って」
次郎は目を丸くした。
「僕がそんな気の利いたことを?」
「そこに驚くの?」
「いや、もっとこう、哲学的なことを言った記憶ならありそうなんですが」
「あなたは哲学的なことを言いながら、肝心なところで人の気持ちが分からないのよ」
「それは否定できません」
美鈴は笑った。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
「次郎さん。去年の私は、あなたに何かを約束した」
「何を?」
「それが思い出せないの」
次郎は机の上のノートを手に取った。
被験者番号19。
2025年11月1日。
そして、隣にはもう一つの記録があった。
被験者番号20。
佑月美鈴。
実験日も同じだった。
「僕たちは、去年ここで実験を受けたんでしょうか」
「そんなはずないわ。私は白砂研究所の存在を知らなかった」
「記憶にないことと、存在しなかったことは違います」
「また屁理屈?」
「哲学です」
「便利な言葉ね」
次郎はノートの最後のページを開いた。
そこには、実験の結果が記されていた。
琴葉次郎。
主観的経過時間――五分。
佑月美鈴。
主観的経過時間――五分。
外部時計――停止。
実験結果――不成立。
そして、その下に赤い文字で一文が書かれていた。
二人は同じ時間を経験した。しかし、同じ記憶を持ち帰らなかった。
「どういうことかしら」
「同じ場所にいても、同じものを見ているとは限らない。そういうことかもしれません」
「でも、実験記録には同じ時間を経験したとあるわ」
「時間を経験することと、時間を記憶することは別なのかもしれません」
美鈴はノートをのぞき込んだ。
「つまり、私たちは同じ五分間を過ごした。でも、その五分間の記憶だけが違う?」
「あるいは、片方だけが記憶を失った」
「どちらが?」
「それが問題です」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
二人は同時に振り返った。
「誰か来ますね」
次郎がドアの方へ歩き出したとき、廊下の奥から声がした。
「そこから動かない方がいい」
現れたのは神代玲司だった。
彼はいつもの黒いコートを着ていたが、顔色は悪く、ひどく疲れているように見えた。
「神代さん!」
「やはり、ここへ来ましたね」
「どうしてここに?」
「あなたたちが来ることを知っていたからです」
次郎は眉をひそめた。
「また未来の手紙ですか?」
「いいえ。私自身が、去年ここに来ていたからです」
美鈴が立ち上がった。
「神代さん。私たちも去年ここに来たんですか?」
神代は答えず、机の上のノートを見た。
「それを見たのですね」
「被験者番号19と20。私たちの名前が書かれていました」
「そうです」
「どうして私たちの名前が?」
神代はゆっくり椅子に腰を下ろした。
「1988年の実験は、失敗したのではありません。実験の目的そのものが間違っていたのです」
「目的?」
「研究者たちは、人間が時間をどのように認識するかを調べようとしていました。しかし、玲奈は違うことに気づいた」
「何にです?」
「人間は時間を認識しているのではなく、出来事を順番に並べているだけなのではないか、と」
次郎は腕を組んだ。
「過去、現在、未来という順番を、人間が作っているということですか」
「そうです。研究者たちは、ある実験で被験者に同じ映像を見せました。映像は一つ。しかし、被験者によって、その映像を見た順番の記憶が違っていた」
「それは記憶の錯誤では?」
美鈴が尋ねた。
「最初はそう考えられました。しかし、問題はその先です。ある被験者は、まだ見ていないはずの映像の内容を正確に説明した」
「未来を予知した?」
「そう呼ぶこともできます。しかし、私はそう考えていません」
神代は二人を見た。
「その人は、すでに見ていたのです。ただし、本人の認識では、まだ見ていないことになっていた」
次郎は少し考えた。
「つまり、時間の順序と記憶の順序が一致していない?」
「その通りです」
神代は机の上に一枚の写真を置いた。
そこには、若い神代と白石玲奈が写っていた。
背景には、あの駅のホーム。
そして、二人の後ろにもう一人、人影がある。
次郎だった。
「これは……」
次郎は写真を手に取った。
「僕ですか?」
「そうです」
「いつ撮影したものです?」
「1988年11月1日」
次郎は写真を裏返した。
日付の横に、もう一つ文字が書かれていた。
三人目は、まだ来ていない。
「神代さん。これはどういう意味です?」
「私にも分かりません」
「あなたが撮影したのでは?」
「撮影したのは玲奈です。私はこの写真を、実験の後で見つけました」
美鈴が写真をのぞき込んだ。
「この人物、本当に次郎さんなの?」
「顔は似ています。しかし、服装が違う」
次郎は写真をじっと見た。
そこに写っている男は、確かに自分に似ていた。
ただし、現在の次郎よりも少し若く見える。
「僕は1988年には生まれていません」
「分かっています」
「だったら、これは写真の加工か、別人でしょう」
「私もそう考えました」
神代は写真を取り戻した。
「しかし、もう一つあります」
彼はコートの内ポケットから小さな封筒を取り出した。
「これは、玲奈が私に残したものです。中身を見てください」
次郎が封筒を開けると、一枚の紙が入っていた。
そこには、短い文章が書かれていた。
アキレスは亀に追いつけないのではない。
亀もまた、アキレスを追いかけている。
二人が同じ場所にいることに気づくまで、競争は終わらない。
次郎は紙を見つめた。
「これは……」
「玲奈が最後に書いた言葉です」
神代の声がかすれた。
「私はずっと、彼女に追いつこうとしていました。彼女がいなくなった場所を探し、彼女が残した記録を調べ、時間の謎を解こうとしてきた」
「でも、彼女は探すなと言った」
「そうです」
「なぜです?」
神代はしばらく沈黙した。
「彼女は、私が探し続けることを望んでいなかったのかもしれません」
美鈴が静かに言った。
「神代さん。あなたは、本当は何を探しているんですか?」
神代は彼女を見た。
「玲奈です」
「違うと思います」
「どういう意味です?」
「あなたが探しているのは、玲奈さんがいなくなった理由ではありませんか。彼女が生きているかどうかよりも、自分が彼女を失った理由を知りたいんじゃないですか」
神代は何も答えなかった。
次郎はその様子を見て、初めて神代の表情に人間らしい弱さを感じた。
世界的な数学者。
どんな問題にも論理で答えを出そうとする男。
しかし、たった一人の女性のことだけは、何十年経っても解けずにいる。
「神代さん」
次郎は写真を机に戻した。
「一つ、提案があります」
「何ですか」
「もう一度、実験をしましょう」
「何をするつもりです?」
「五分間を取り戻すんです」
神代は目を細めた。
「それが何を意味するか、分かっているのですか」
「分かりません」
「危険かもしれない」
「そうでしょうね」
「それでも?」
次郎は美鈴を見た。
美鈴は少し困った顔をしていたが、やがて頷いた。
「やるしかないでしょうね」
「美鈴さんまで……」
「あなた一人に任せたら、もっとひどいことになるから」
次郎は苦笑した。
神代は二人を見比べ、やがて静かに言った。
「分かりました。ただし、一つだけ条件があります」
「何です?」
「実験中、何が見えても、決して名前を呼ばないこと」
「誰の名前を?」
神代は答えなかった。
その代わり、実験室の奥にある古い装置を指さした。
「そこに座ってください」
次郎と美鈴が椅子に座る。
神代は装置のスイッチを入れた。
古い機械が唸り始める。
壁の時計は、文字盤のないままだ。
次郎は美鈴の手を握った。
「怖いですか?」
「少し」
「僕もです」
「じゃあ、手を離さないで」
「はい」
その瞬間、神代が声を上げた。
「始めます」
装置の音が止まった。
そして、部屋の中に白い光が満ちた。
次郎は目を閉じた。
次に目を開けたとき、そこには見知らぬ駅のホームがあった。
木製のベンチ。
柱の番号は17。
文字盤のない時計。
そして、ホームの端に一人の女性が立っていた。
白石玲奈だった。
彼女は次郎を見て、微笑んだ。
「やっと来ましたね」
次郎は思わず声を出しかけた。
そのとき、神代の言葉が頭をよぎった。
――決して名前を呼ばないこと。
玲奈は次郎の隣にいる美鈴を見た。
「あなたも、思い出したのね」
美鈴は震えていた。
「あなたは……誰?」
玲奈は答えず、ホームの時計を見上げた。
「あと五分です」
「何が起きるんです?」
次郎が尋ねた。
玲奈は静かに言った。
「五分後、あなたたちは二つの選択を迫られます」
「二つ?」
「ここに残るか、帰るか」
「帰るとは、どこへ?」
「あなたたちが、今いると思っている場所へ」
玲奈は少しだけ笑った。
「でも、気をつけてください。帰ることが、必ずしも元の場所に戻ることとは限らないのです」
ホームの時計が動き始めた。
午前10時42分。
そして、背後からもう一人の声が聞こえた。
「次郎君。振り返ってはいけない」
その声は、黒崎宗一のものだった。
次郎は振り返りそうになった。
しかし、その瞬間、美鈴が彼の手を強く握った。
「振り返らないで」
美鈴の声は震えていた。
「後ろにいるのは、黒崎先生じゃない」
次郎は前を向いたまま尋ねた。
「じゃあ、誰なんです?」
美鈴は答えた。
「去年の私たちよ」
ホームの時計が、10時43分を指した。
五分間のうち、最初の一分が過ぎていた。




