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無限の檻  作者: 内藤晴夢
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8/20

8.未来から届いた手紙



神代玲司から連絡があったのは、翌日の午前九時を少し過ぎた頃だった。


 次郎は自宅のテーブルに座り、冷めかけたコーヒーを飲んでいた。テーブルの上には、白砂研究所の実験記録、二枚の駅の写真、そして白石玲奈の手紙が広がっている。


 スマートフォンが震えた。


「神代さん?」


『琴葉君。今、時間はありますか』


「ありますよ。時間なら、たっぷり。もっとも、時間が本当に存在するかどうかは別問題ですが」


『相変わらずですね。佑月さんも一緒ですか』


「ええ。隣にいます」


 美鈴は次郎のスマートフォンをのぞき込んだ。


「スピーカーにして」


「はいはい」


 次郎が操作すると、神代の声が部屋に響いた。


『昨日、妙なものが届きました』


「妙なもの?」


『手紙です。差出人は白石玲奈』


 次郎と美鈴は顔を見合わせた。


「玲奈さんから? でも、彼女は1988年から行方不明なんですよね」


『そうです。しかも、消印は昨日の日付でした』


「昨日?」


『2026年11月1日です』


 次郎は思わずカレンダーを見た。


「今日は11月2日ですよ。つまり、昨日投函された手紙ということですか」


『そういうことになります』


 美鈴が口を挟んだ。


「神代さん。手紙の中身は?」


『読みます』


 紙を広げる音がした。


『玲司さんへ。


 あなたは、まだ私を探しているのでしょうか。


 私はあなたのすぐ近くにいます。


 けれど、あなたが私を見つけようとする限り、私たちは出会えません。


 次郎さんと美鈴さんを連れて、白砂研究所へ行ってください。


 そこで、あなたが失った五分間を取り戻してください。


 ただし、時計を持ってきてはいけません。


 玲奈』


 沈黙が流れた。


 最初に口を開いたのは美鈴だった。


「次郎さんと私の名前が書いてある……」


「そうですね。しかも、私たちが白砂研究所へ行くことを知っている」


 次郎は手紙の内容を頭の中で繰り返した。


「神代さん。封筒は残っていますか」


『あります』


「筆跡は?」


『間違いなく玲奈のものです。昔の手紙と比べました』


「紙は古いものですか?」


『いいえ。普通の便箋です。古びてもいません』


 次郎は椅子にもたれた。


「困りましたね」


「何が?」


「未来から手紙が届いた、という話なら面白いんですが、実際には昨日書かれた手紙かもしれない。誰かが玲奈さんの筆跡を真似た可能性もあります」


 美鈴が頷いた。


「まずは物理的な説明を探すべきね」


『私もそう考えました。しかし、一つだけ説明できないことがあります』


「何です?」


『封筒の中に、もう一枚紙が入っていたのです』


 神代の声が少し低くなった。


『そこには、こう書かれていました。


 1988年11月1日、午前10時42分。


 あなたは、私を見送った。


 そして、2026年11月1日、午前10時42分。


 あなたは、もう一度私を見送る』


 次郎は黙った。


 美鈴が小さく息を吸った。


「昨日の午前10時42分……」


「そう。僕たちが最初に喫茶店で時計が止まった時刻だ」


 次郎は壁の時計を見た。


 午前九時二十七分。


「神代さん。昨日、その時刻に何をしていました?」


『白砂研究所の跡地にいました』


「一人で?」


『はい』


「何か起きましたか」


『五分間、時計が止まりました』


 次郎は目を閉じた。


 また五分間。


 また10時42分。


 そして、また誰かがその場にいた。


「神代さん。その五分間、何を見たんです?」


『女性です』


「玲奈さん?」


『顔は見えませんでした。しかし、声は聞こえました』


 神代は一呼吸置いた。


『「もう探さなくていい」と』


 電話が切れた後、次郎はしばらく動かなかった。


 美鈴がテーブルの上の手紙を見つめている。


「白砂研究所へ行くしかないわね」


「そうですね」


「怖くないの?」


「怖いですよ」


「嘘」


「本当です。怖いけれど、好奇心の方が強いだけです」


「それを世間では無謀と言うのよ」


「好奇心と無謀は、紙一重です」


「あなたの場合、紙一枚もないわね」


 次郎は笑った。


 しかし、その笑顔はすぐに消えた。


 彼は手紙の最後の一文をもう一度読んだ。


 ――あなたは、もう一度私を見送る。


「美鈴さん」


「何?」


「もし、時間が過去から未来へ流れているのではなく、過去と未来が同時に存在しているとしたら、どう思います?」


「物理学では、そういう考え方もあるわ。少なくとも、時間を単純に流れる川のように考える必要はない」


「では、僕たちが過去を思い出すというのは?」


「脳が記憶を再構成しているということ」


「未来を思い出すことは?」


「普通はできないわ」


「普通は、ですか」


 美鈴は答えなかった。


 次郎はノートを開き、二つの時刻を書いた。


 1988年11月1日 10:42


 2026年11月1日 10:42


 その下に、さらに一行を書いた。


 同じ五分間は、二度起きたのか。それとも、一度しか起きていないのか。


     *


 午後、二人は白砂研究所の跡地へ向かった。


 研究所は郊外の丘の上にあった。現在は閉鎖され、敷地の大半が雑草に覆われている。古い門には錆びた鎖が巻かれていた。


「本当にここなの?」


 美鈴が尋ねた。


「黒崎先生の資料と一致しています。間違いないでしょう」


「立入禁止の札があるわよ」


「見えています」


「見えているなら、どうして門を開けようとしているの?」


「知的好奇心です」


「警察に説明して」


 次郎は苦笑しながら、神代から預かった鍵を取り出した。


 門はあっけなく開いた。


 建物の中は暗く、湿った空気が漂っていた。壁には古い実験室の案内板が残っている。


 第一実験室。


 第二実験室。


 第三実験室。


 そして、一番奥に小さなプレートがあった。


 時間認識実験室


「ここね」


 美鈴がドアに手をかけた。


 鍵はかかっていなかった。


 部屋の中には、古い机と椅子が二脚。そして壁には、文字盤のない時計が掛けられていた。


 次郎は立ち止まった。


「写真と同じだ」


 美鈴は机の上を調べた。


「何かあるわ」


 そこには、一冊のノートが置かれていた。


 表紙には、白石玲奈と書かれている。


 次郎がページを開く。


 最初のページには、実験日と被験者番号が記されていた。


 1988年11月1日。


 被験者番号18。


 白石玲奈。


 そして、最後のページ。


 そこには、見覚えのある文章があった。


 ――追いついたのではない。


 ――最初から、二人は同じ場所にいたのだ。


「神代さんが言っていた言葉ね」


 美鈴が呟いた。


 次郎はページをめくった。


 最後のページの裏側に、小さな文字が書かれている。


 それは、玲奈の筆跡ではなかった。


 琴葉次郎へ。


 次郎は息を止めた。


 その下には、こう記されていた。


 あなたは、まだこの部屋に来ていない。


 美鈴が次郎の顔を見た。


「どういう意味?」


「さあ……」


 次郎はノートを閉じた。


 その瞬間、部屋の奥から小さな音がした。


 カチッ。


 壁の時計が動いたのだ。


 文字盤のない時計の針が、ゆっくりと回り始めた。


 そして、部屋のスピーカーから女性の声が流れた。


『次郎さん。やっと来てくれましたね』


 美鈴が次郎の腕をつかんだ。


 次郎は動けなかった。


 その声には聞き覚えがあった。


 いや、聞き覚えがあるどころではない。


 その声は、昨日の夜、夢の中で聞いた声だった。


『でも、まだ早いのです』


 声は続けた。


『美鈴さん。あなたは、もう一度思い出さなければなりません』


 美鈴の顔から血の気が引いた。


「私が……何を?」


『あなたが、ここに来た日のことを』


 その直後、時計が止まった。


 午前10時42分。


 次郎は腕時計を見た。


 午後二時十七分。


 時計は、動いていなかった。


 そして美鈴が、震える声で言った。


「次郎さん……私、思い出した」


「何を?」


「去年、この部屋に来たことがある」


 彼女は次郎の手を強く握った。


「そのとき、私は一人じゃなかった」


「誰と?」


 美鈴は、壁の文字盤のない時計を見つめた。


「あなたとよ」


 次郎は言葉を失った。


 自分は去年、この場所に来た記憶などない。


 だが、机の上に置かれたノートには、いつの間にか新しい文字が浮かび上がっていた。


 琴葉次郎、被験者番号19。


 その横に、実験日が記されていた。


 2025年11月1日。


 次郎は美鈴を見た。


「僕たちは……去年、ここで何をしたんでしょうね」


 美鈴は答えなかった。


 ただ、彼の手を握ったまま、目を閉じていた。


 そして、彼女の頬を一筋の涙が伝った。


























神代玲司から連絡があったのは、翌日の午前九時を少し過ぎた頃だった。


 次郎は自宅のテーブルに座り、冷めかけたコーヒーを飲んでいた。テーブルの上には、白砂研究所の実験記録、二枚の駅の写真、そして白石玲奈の手紙が広がっている。


 スマートフォンが震えた。


「神代さん?」


『琴葉君。今、時間はありますか』


「ありますよ。時間なら、たっぷり。もっとも、時間が本当に存在するかどうかは別問題ですが」


『相変わらずですね。佑月さんも一緒ですか』


「ええ。隣にいます」


 美鈴は次郎のスマートフォンをのぞき込んだ。


「スピーカーにして」


「はいはい」


 次郎が操作すると、神代の声が部屋に響いた。


『昨日、妙なものが届きました』


「妙なもの?」


『手紙です。差出人は白石玲奈』


 次郎と美鈴は顔を見合わせた。


「玲奈さんから? でも、彼女は1988年から行方不明なんですよね」


『そうです。しかも、消印は昨日の日付でした』


「昨日?」


『2026年11月1日です』


 次郎は思わずカレンダーを見た。


「今日は11月2日ですよ。つまり、昨日投函された手紙ということですか」


『そういうことになります』


 美鈴が口を挟んだ。


「神代さん。手紙の中身は?」


『読みます』


 紙を広げる音がした。


『玲司さんへ。


 あなたは、まだ私を探しているのでしょうか。


 私はあなたのすぐ近くにいます。


 けれど、あなたが私を見つけようとする限り、私たちは出会えません。


 次郎さんと美鈴さんを連れて、白砂研究所へ行ってください。


 そこで、あなたが失った五分間を取り戻してください。


 ただし、時計を持ってきてはいけません。


 玲奈』


 沈黙が流れた。


 最初に口を開いたのは美鈴だった。


「次郎さんと私の名前が書いてある……」


「そうですね。しかも、私たちが白砂研究所へ行くことを知っている」


 次郎は手紙の内容を頭の中で繰り返した。


「神代さん。封筒は残っていますか」


『あります』


「筆跡は?」


『間違いなく玲奈のものです。昔の手紙と比べました』


「紙は古いものですか?」


『いいえ。普通の便箋です。古びてもいません』


 次郎は椅子にもたれた。


「困りましたね」


「何が?」


「未来から手紙が届いた、という話なら面白いんですが、実際には昨日書かれた手紙かもしれない。誰かが玲奈さんの筆跡を真似た可能性もあります」


 美鈴が頷いた。


「まずは物理的な説明を探すべきね」


『私もそう考えました。しかし、一つだけ説明できないことがあります』


「何です?」


『封筒の中に、もう一枚紙が入っていたのです』


 神代の声が少し低くなった。


『そこには、こう書かれていました。


 1988年11月1日、午前10時42分。


 あなたは、私を見送った。


 そして、2026年11月1日、午前10時42分。


 あなたは、もう一度私を見送る』


 次郎は黙った。


 美鈴が小さく息を吸った。


「昨日の午前10時42分……」


「そう。僕たちが最初に喫茶店で時計が止まった時刻だ」


 次郎は壁の時計を見た。


 午前九時二十七分。


「神代さん。昨日、その時刻に何をしていました?」


『白砂研究所の跡地にいました』


「一人で?」


『はい』


「何か起きましたか」


『五分間、時計が止まりました』


 次郎は目を閉じた。


 また五分間。


 また10時42分。


 そして、また誰かがその場にいた。


「神代さん。その五分間、何を見たんです?」


『女性です』


「玲奈さん?」


『顔は見えませんでした。しかし、声は聞こえました』


 神代は一呼吸置いた。


『「もう探さなくていい」と』


 電話が切れた後、次郎はしばらく動かなかった。


 美鈴がテーブルの上の手紙を見つめている。


「白砂研究所へ行くしかないわね」


「そうですね」


「怖くないの?」


「怖いですよ」


「嘘」


「本当です。怖いけれど、好奇心の方が強いだけです」


「それを世間では無謀と言うのよ」


「好奇心と無謀は、紙一重です」


「あなたの場合、紙一枚もないわね」


 次郎は笑った。


 しかし、その笑顔はすぐに消えた。


 彼は手紙の最後の一文をもう一度読んだ。


 ――あなたは、もう一度私を見送る。


「美鈴さん」


「何?」


「もし、時間が過去から未来へ流れているのではなく、過去と未来が同時に存在しているとしたら、どう思います?」


「物理学では、そういう考え方もあるわ。少なくとも、時間を単純に流れる川のように考える必要はない」


「では、僕たちが過去を思い出すというのは?」


「脳が記憶を再構成しているということ」


「未来を思い出すことは?」


「普通はできないわ」


「普通は、ですか」


 美鈴は答えなかった。


 次郎はノートを開き、二つの時刻を書いた。


 1988年11月1日 10:42


 2026年11月1日 10:42


 その下に、さらに一行を書いた。


 同じ五分間は、二度起きたのか。それとも、一度しか起きていないのか。


     *


 午後、二人は白砂研究所の跡地へ向かった。


 研究所は郊外の丘の上にあった。現在は閉鎖され、敷地の大半が雑草に覆われている。古い門には錆びた鎖が巻かれていた。


「本当にここなの?」


 美鈴が尋ねた。


「黒崎先生の資料と一致しています。間違いないでしょう」


「立入禁止の札があるわよ」


「見えています」


「見えているなら、どうして門を開けようとしているの?」


「知的好奇心です」


「警察に説明して」


 次郎は苦笑しながら、神代から預かった鍵を取り出した。


 門はあっけなく開いた。


 建物の中は暗く、湿った空気が漂っていた。壁には古い実験室の案内板が残っている。


 第一実験室。


 第二実験室。


 第三実験室。


 そして、一番奥に小さなプレートがあった。


 時間認識実験室


「ここね」


 美鈴がドアに手をかけた。


 鍵はかかっていなかった。


 部屋の中には、古い机と椅子が二脚。そして壁には、文字盤のない時計が掛けられていた。


 次郎は立ち止まった。


「写真と同じだ」


 美鈴は机の上を調べた。


「何かあるわ」


 そこには、一冊のノートが置かれていた。


 表紙には、白石玲奈と書かれている。


 次郎がページを開く。


 最初のページには、実験日と被験者番号が記されていた。


 1988年11月1日。


 被験者番号18。


 白石玲奈。


 そして、最後のページ。


 そこには、見覚えのある文章があった。


 ――追いついたのではない。


 ――最初から、二人は同じ場所にいたのだ。


「神代さんが言っていた言葉ね」


 美鈴が呟いた。


 次郎はページをめくった。


 最後のページの裏側に、小さな文字が書かれている。


 それは、玲奈の筆跡ではなかった。


 琴葉次郎へ。


 次郎は息を止めた。


 その下には、こう記されていた。


 あなたは、まだこの部屋に来ていない。


 美鈴が次郎の顔を見た。


「どういう意味?」


「さあ……」


 次郎はノートを閉じた。


 その瞬間、部屋の奥から小さな音がした。


 カチッ。


 壁の時計が動いたのだ。


 文字盤のない時計の針が、ゆっくりと回り始めた。


 そして、部屋のスピーカーから女性の声が流れた。


『次郎さん。やっと来てくれましたね』


 美鈴が次郎の腕をつかんだ。


 次郎は動けなかった。


 その声には聞き覚えがあった。


 いや、聞き覚えがあるどころではない。


 その声は、昨日の夜、夢の中で聞いた声だった。


『でも、まだ早いのです』


 声は続けた。


『美鈴さん。あなたは、もう一度思い出さなければなりません』


 美鈴の顔から血の気が引いた。


「私が……何を?」


『あなたが、ここに来た日のことを』


 その直後、時計が止まった。


 午前10時42分。


 次郎は腕時計を見た。


 午後二時十七分。


 時計は、動いていなかった。


 そして美鈴が、震える声で言った。


「次郎さん……私、思い出した」


「何を?」


「去年、この部屋に来たことがある」


 彼女は次郎の手を強く握った。


「そのとき、私は一人じゃなかった」


「誰と?」


 美鈴は、壁の文字盤のない時計を見つめた。


「あなたとよ」


 次郎は言葉を失った。


 自分は去年、この場所に来た記憶などない。


 だが、机の上に置かれたノートには、いつの間にか新しい文字が浮かび上がっていた。


 琴葉次郎、被験者番号19。


 その横に、実験日が記されていた。


 2025年11月1日。


 次郎は美鈴を見た。


「僕たちは……去年、ここで何をしたんでしょうね」


 美鈴は答えなかった。


 ただ、彼の手を握ったまま、目を閉じていた。


 そして、彼女の頬を一筋の涙が伝った。










































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