7.アキレスと亀の大騒動
「白砂研究所へ行く前に、ひとつ確認したいことがあります」
大学の研究室で、美鈴が資料を広げた。
「何?」
「昨日から、私たちは時間が止まったとか、過去の写真に未来の人間が写っているとか、そういう話ばかりしています」
「うん」
「でも、肝心なことを忘れていませんか?」
「何だろう」
「私たちは、まだ何ひとつ証明していません」
次郎は椅子の背にもたれた。
「それはそうだね」
「だったら、まずは現象を整理して、再現できるか調べるべきです」
「賛成」
「本当ですか?」
「もちろん。科学の基本だからね」
美鈴は少し安心したようだった。
「では、今日は実験をしましょう」
「何の?」
「時間の認識についてです」
次郎は笑った。
「それなら、ちょうどいい実験を思いついた」
「嫌な予感がします」
「アキレスと亀だよ」
美鈴は目を閉じた。
「またゼノンですか」
「そう。今日は少し実験的に考えてみよう」
二人は大学の中庭に出た。
ちょうど昼休みで、学生たちが行き交っている。
次郎はベンチから小さな亀の置物を取り出した。
「それは何です?」
「亀」
「見れば分かります」
「研究室にあったんだ」
「誰のものですか?」
「知らない」
美鈴は呆れた。
「勝手に持ち出していいんですか?」
「あとで返すよ」
次郎は地面に亀の置物を置いた。
「これが亀。僕がアキレス」
「あなたが?」
「そう」
「足の速さは?」
「普通」
「それでは話になりません」
次郎は気にせず続けた。
「アキレスは亀より速い。ただし、亀には先に進んでもらう」
彼は亀の置物を少し前に置いた。
「アキレスが亀のいた場所に到着する。その間に亀は少し進む。次にアキレスがその場所に着くと、亀はまた少し進む」
美鈴が言った。
「それを繰り返しても、実際にはアキレスが追いつきます」
「そうだね。数学では無限級数の収束として説明できる」
「では、何が問題なんです?」
次郎は地面に線を引いた。
「数学的には解決している。でも、ここで考えてほしい。無限に分割できるということと、現実の運動が本当に無限の段階を経ているということは同じなのかな?」
美鈴は腕を組んだ。
「現実の運動を無限の段階に分けて記述しているだけです」
「そうだね。では、その分割は世界にあるのか、それとも人間の頭の中にあるのか?」
「両方かもしれません」
「いい答えだ」
「だから、褒めないでください」
次郎は笑った。
そのとき、通りかかった男子学生が足を止めた。
「何やってるんですか?」
「哲学の実験」
「亀で?」
「そう」
学生は亀の置物を見て、少し考えた。
「それ、アキレスじゃなくてウサギの方がよくないですか?」
美鈴が吹き出した。
次郎は真顔で答えた。
「ウサギは途中で寝る可能性がある」
「なるほど」
学生は納得したように去っていった。
美鈴は笑いをこらえながら言った。
「あなた、真面目にやってください」
「今のは大事な指摘だよ」
「どこがです?」
「競争相手の性格によって、結果が変わるということだ」
「それはゼノンとは関係ありません」
二人は笑った。
その瞬間、次郎のスマートフォンが鳴った。
黒崎からのメールだった。
――白砂研究所の資料が見つかった。至急、研究室に戻ってほしい。
次郎は美鈴を見た。
「どうやら、亀との競争は中止だ」
「最初から競争していません」
研究室に戻ると、黒崎が古い資料を机の上に広げていた。
「見つかったんですか?」
次郎が尋ねる。
「ああ。白砂研究所の所在地が分かった」
「どこです?」
黒崎は地図を指さした。
「埼玉県北部だ」
美鈴が驚いた。
「埼玉ですか?」
「そうだ。現在は研究所の建物も残っていない。ただ、当時の施設の一部が別の用途で使われていた記録がある」
次郎は地図を見た。
「ここから遠くないですね」
「問題は、研究所の所在地だけではない」
黒崎は別の資料を取り出した。
それは、実験参加者の一覧だった。
「この中に、神代君の名前がある」
美鈴が身を乗り出した。
「1994年の実験ですか?」
「いや。1988年だ」
次郎は資料を確認した。
被験者番号17。
氏名欄には、はっきりと書かれていた。
神代玲司。
「神代先生が、実験に参加していた?」
黒崎はうなずいた。
「当時、彼は大学院生だった。白砂研究所の研究者と交流があったらしい」
「なぜ、そのことを今まで教えてくれなかったんです?」
美鈴の問いに、黒崎は目を伏せた。
「私も知らなかったんだ。つい先ほど、別の資料から見つけた」
次郎は実験記録を読んだ。
――被験者番号17。
――実験開始時刻、午前十時四十二分。
――終了時刻、午前十時四十七分。
――本人の主観的経過時間、五分。
――外部時計の記録、五分間の停止。
次郎は顔を上げた。
「また五分間です」
「そうだ」
「この実験で、神代先生は何を見たんでしょう?」
黒崎は首を振った。
「記録は残っていない。ただ、最後に一行だけ書かれている」
彼は資料を裏返した。
そこには、鉛筆でこう記されていた。
――被験者は、実験終了後も亀を追い続けていると発言。
美鈴が眉をひそめた。
「亀?」
次郎はその一文を見つめた。
「アキレスと亀……」
黒崎はうなずいた。
「当時の研究者は、ゼノンのパラドックスを実験に使っていたらしい」
「どんな実験です?」
「詳しい方法は不明だ。ただ、被験者に一定の距離を移動する映像を見せ、その後、時間の経過を答えさせていたようだ」
美鈴は考え込んだ。
「映像の認識と時間感覚の関係を調べていたのでしょうか」
「おそらくね」
次郎は資料をもう一度読んだ。
「追い続けている……」
その言葉が、なぜか頭から離れなかった。
午後三時。
神代玲司は、大学の別棟にある講義室にいた。
黒崎から連絡を受け、急遽こちらへ来たのだ。
「その資料を見せてもらえますか」
次郎が記録を差し出した。
神代は被験者番号17の記録を見て、表情を変えた。
「懐かしいな」
「先生、覚えているんですか?」
「もちろん」
「何を実験したんです?」
神代は椅子に座った。
「簡単な実験だったよ。映像を見せられ、その中の人物がどれだけ移動したか、時間をどう感じたかを答える」
「それだけですか?」
「最初はね」
神代は資料を閉じた。
「最後に、少し変わった映像を見せられた」
「どんな映像です?」
「アキレスが亀を追いかける映像だ」
次郎は身を乗り出した。
「それで?」
「アキレスは何度も亀のいた場所に到達する。しかし、亀はそのたびに少し先へ進んでいる」
「ゼノンのパラドックスですね」
「そうだ。映像は何度も繰り返された」
美鈴が尋ねた。
「何回くらいですか?」
「分からない。最初は数回だったと思う。やがて映像が止まり、研究者が私に質問した」
「何を?」
神代は二人を見た。
「アキレスは亀に追いついたと思うか、と」
次郎は答えた。
「普通なら、追いつきます」
「私もそう答えた」
神代は続けた。
「ところが、研究者は言った。君は本当に追いついたところを見たのか、と」
美鈴が首を傾げた。
「映像の最後まで見れば分かるのでは?」
「そうだ。だが、最後の映像にはアキレスも亀もいなかった」
「どういうことです?」
「画面には、空っぽの道だけが映っていた」
次郎は黙って聞いていた。
「私は研究者に尋ねた。アキレスと亀はどこへ行ったのか、と。すると、研究者はこう答えた」
神代は一度目を閉じた。
「二人とも、まだ途中にいる」
部屋の中が静かになった。
美鈴が言った。
「映像の編集ミスではありませんか?」
「そう考えるのが自然だ」
「では、なぜ先生はその実験を覚えているんです?」
神代は少し笑った。
「その後、私は五分間の記憶を失ったからだ」
次郎が尋ねた。
「実験中に?」
「そうだ。気がついたとき、私は研究室の外にいた。研究者たちは、私が五分間ずっと椅子に座っていたと言った」
「先生は何をしていたんです?」
「覚えていない」
神代は窓の外を見た。
「ただ、手のひらに小さな文字が書かれていた」
「何と?」
「まだ追いついていない」
次郎は息をのんだ。
その言葉は、白砂研究所の記録にあった文章とつながっているように思えた。
追いつけない者は、いつか同じ場所に戻ってくる。
美鈴が静かに尋ねた。
「先生。その実験と、白石玲奈さんの失踪には関係があるんですか?」
神代の表情が変わった。
「誰から聞いた?」
「黒崎先生です」
神代はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり答えた。
「玲奈は、私の後に同じ実験を受けた」
次郎は驚いた。
「白石さんも被験者だった?」
「ああ」
「そのとき何が起きたんです?」
神代は机の上に両手を置いた。
「彼女は、私と同じ映像を見た。そして、同じ質問をされた」
「アキレスは亀に追いついたか?」
「そうだ」
「彼女は何と答えたんです?」
神代は静かに言った。
「追いついたのではない。最初から、二人は同じ場所にいたのだと」
美鈴は目を見開いた。
次郎はその言葉を頭の中で繰り返した。
最初から同じ場所にいた。
もしそうなら、追いつく必要などない。
だが、それは数学の問題ではなく、世界の見方そのものを変えてしまう考え方だった。
神代は立ち上がった。
「私は彼女の答えを理解できなかった。だから、もう一度会って聞こうと思った」
「それで、駅に?」
「ああ」
「白石さんは、そこにいたんですか?」
神代は答えなかった。
ただ、鞄から一枚の紙を取り出した。
それは古い実験記録の写しだった。
被験者番号18。
氏名、白石玲奈。
実験日、1988年11月1日。
結果の欄には、こう書かれていた。
――被験者は、実験終了後に姿を確認できず。
――実験室の時計は五分間停止。
――終了後、被験者の所在は不明。
美鈴が小さく声を漏らした。
「姿を確認できず……?」
次郎は神代を見た。
「先生。白石さんは、1988年にいなくなったんですか?」
神代はうなずいた。
「そうだ」
「では、1994年の写真に写っているのは?」
「分からない」
神代は写真をしまった。
「ただ、私は今でも彼女を探している」
その夜。
次郎は自宅で、アキレスと亀の図を描いていた。
アキレスが亀に追いつく。
何度も距離を縮める。
最後には同じ場所に到達する。
しかし、白石玲奈は違う答えを出した。
最初から同じ場所にいた。
次郎はペンを止めた。
「そうか……」
彼は図の横に、もう一つの図を描いた。
二本の線が、離れているように見える。
しかし、見る角度を変えると、一本の線に重なる。
人間が世界をどう切り分けるかによって、距離の意味は変わるのではないか。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
美鈴からだった。
『今日の話、まだ考えていますか?』
次郎は返信した。
『もちろん』
『私は、白石さんの答えが気になります』
『最初から同じ場所にいた、という話?』
『はい。あれは単なる比喩ではない気がします』
次郎は少し考えた。
『今度、一緒に考えよう』
返事はすぐに来た。
『そうですね』
そのあと、もう一通届いた。
『それと、今日はありがとうございました』
次郎は画面を見つめた。
「珍しいな」
彼は返信した。
『こちらこそ。楽しかったよ』
しばらくして、美鈴から返事が来た。
『調査の話です』
次郎は笑った。
「分かってるよ」
そう言いながら、彼はその文章を消さずに残しておいた。
同じ頃。
神代玲司は、書斎の机に向かっていた。
手元には、白石玲奈の写真。
その隣に、一通の古い手紙がある。
神代は封筒を開いた。
中には、若い女性の筆跡で書かれた短い文章があった。
――アキレスは、亀に追いつけないのではありません。
――私たちが、追いつくということの意味を間違えているのです。
――もし、いつか私がいなくなったら、探さないでください。
――あなたが探すほど、私たちの距離は遠くなってしまうから。
神代は手紙を閉じた。
そして、机の上の懐中時計を見た。
午前十時四十二分。
止まった針は、今日も動かなかった。
「玲奈……」
彼は小さくつぶやいた。
「今度こそ、追いついてみせる」
その瞬間、懐中時計の秒針が一度だけ動いた。
そして、止まった。




