6.追いつけない男
翌朝、琴葉次郎は珍しく早起きをしていた。
午前七時。
普段なら、まだ布団の中で昨日の続きを考えている時間だ。
しかし今日は違った。
机の上に、昨夜から広げたままの資料がある。
1994年11月1日。
三十二年前の写真。
存在しない駅。
そして、神代玲司が持っていた懐中時計。
次郎はコーヒーを飲みながら、ノートに書き込んだ。
「五分間の消失……」
その下に、いくつかの可能性を並べる。
- 記憶の錯誤
- 時計の同期異常
- 集団的な錯覚
- 未知の物理現象
- 時間の認識そのものの問題
最後の項目に丸をつけた。
「やっぱり、ここだな」
彼は独り言を言った。
時間が止まったのか。
それとも、人間が時間を測れなくなっただけなのか。
この二つは似ているようで、まったく違う。
もし時計が止まっても、世界が動いていたのなら、止まったのは時間ではなく時計だ。
もし人間の記憶だけが抜け落ちたのなら、失われたのは時間ではなく記憶だ。
だが、複数の人間が同じ現象を経験し、同じ夢を見たとしたら?
次郎はペンを置いた。
「面倒なことになってきた」
そのとき、スマートフォンが鳴った。
美鈴からだった。
『今日、時間ありますか?』
次郎はすぐに返信した。
『あります』
数秒後、返事が来た。
『本当ですか?』
『本当です』
『では、午前十時に大学へ来てください』
次郎は時計を見た。
午前七時二十分。
「三時間近くあるな」
彼は返信した。
『昼食は一緒にどうですか?』
しばらく返事がなかった。
やがて、
『調査が終わってから考えます』
次郎は満足そうに笑った。
「悪くない返事だ」
午前十時。
大学の研究室。
美鈴はパソコンの画面を見つめていた。
「おはよう」
次郎が入ってくると、美鈴は顔を上げた。
「遅いです」
「約束の時間ちょうどだよ」
「ちょうどに来る人は、たいてい遅いんです」
「それは初耳だ」
「私の経験則です」
次郎は椅子に座った。
「今日は何を調べるの?」
美鈴は画面を見せた。
「昨日の写真です」
画面には、1994年の駅の写真が表示されている。
「画像を拡大して、背景を調べました」
「何か分かった?」
「一つだけ」
美鈴は写真の右端を指した。
そこには、小さな看板が写っていた。
文字はほとんど読めない。
だが、拡大すると、かすかに二文字が浮かび上がった。
白砂。
次郎は目を細めた。
「白砂駅?」
「駅名かどうかは分かりません。ただ、白砂という地名はあります」
「どこに?」
「関東地方では、いくつか候補があります」
美鈴は地図を表示した。
「でも、どれも写真の駅とは一致しません」
次郎は画面を見た。
「白砂……」
「それから、もう一つ」
美鈴は別の画像を開いた。
それは、神代が撮影した写真の裏側だった。
1994年11月1日。
その下に、鉛筆で小さく数字が書かれている。
17:42
「これは撮影時刻?」
次郎が尋ねた。
「分かりません。でも、写真の駅の柱にも17という数字がありました」
「同じ数字だ」
「偶然でしょうか」
次郎は腕を組んだ。
「偶然という可能性もある」
「あなたは偶然を信じますか?」
「信じるよ。偶然が存在しない世界は、ずいぶん退屈だ」
「では、これは偶然ですか?」
「それを調べるのが僕たちの仕事だ」
美鈴は少し笑った。
「ようやくまともなことを言いましたね」
「いつもまともだよ」
「はいはい」
次郎は画面の数字を見つめた。
17:42。
午前十時四十二分。
そして、時計が止まった五分間。
数字が何かを示しているのかもしれない。
しかし、まだ分からない。
そのとき、研究室のドアが開いた。
「失礼するよ」
入ってきたのは黒崎だった。
「先生」
美鈴が立ち上がる。
黒崎は二人の画面を見て、静かにうなずいた。
「白砂か」
「ご存じなんですか?」
次郎が尋ねた。
「ああ。昔、鉄道関係の資料で見たことがある」
「駅があったんですか?」
「いや。駅ではない」
黒崎は椅子に腰掛けた。
「白砂という名前は、ある古い研究記録に出てくる」
「研究記録?」
「昭和初期のものだ。鉄道の資料ではない」
美鈴が尋ねた。
「何の研究ですか?」
黒崎は少し迷ってから答えた。
「人間の時間認識に関する実験だ」
次郎は興味を示した。
「時間の感覚を測る実験ですか?」
「そうだ。時計も暦も使わず、人間が時間をどのように認識するかを調べていた」
「どこで?」
黒崎は二人を見た。
「白砂研究所だ」
部屋が静かになった。
次郎はゆっくりと口を開いた。
「研究所……。駅ではなく、研究施設だったんですね」
「そうだ」
「その研究所は今もあるんですか?」
「ない。戦後まもなく閉鎖された」
美鈴が聞いた。
「何を研究していたんですか?」
黒崎は古い資料を取り出した。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
『時間認識に関する基礎研究』
「詳しいことは分かっていない。ただ、ひとつ奇妙な記録が残っている」
黒崎はページをめくった。
そこには、実験参加者の記録が並んでいた。
日付。
氏名。
実験時間。
そして、結果。
その中の一行に、次郎の目が止まった。
被験者番号17。
「これだ」
次郎が指さした。
その欄には、こう記されていた。
――時間経過の認識なし。
――本人は五分間を経験したと証言。
――実験室の時計は五分間停止。
美鈴は資料を見つめた。
「喫茶店と同じです」
黒崎はうなずいた。
「少なくとも、よく似ている」
「この被験者は誰なんです?」
次郎が尋ねた。
黒崎はページをめくった。
しかし、名前の欄は破り取られていた。
「分からない」
次郎は資料を受け取った。
「被験者番号17……」
そのとき、黒崎が言った。
「琴葉君。君は昨日、神代君に会ったね」
「はい」
「何か聞いたかね?」
「1994年に、あの駅に行ったことがあるそうです」
黒崎は目を伏せた。
「そうか」
「先生は、神代先生が何を経験したかご存じなんですか?」
黒崎はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと話し始めた。
「神代君は、昔から時間に執着していた」
「数学者だからですか?」
「それだけではない」
黒崎は窓の外を見た。
「若い頃、彼には大切な人がいた」
次郎は美鈴を見た。
美鈴も黙って聞いている。
「その人は、ある日突然いなくなった」
「失踪ですか?」
「そうだ。警察にも届けた。だが、何の手掛かりもなかった」
「その人が写真の女性?」
「分からない」
黒崎は首を横に振った。
「ただ、神代君は今でも、その人がどこかにいると信じている」
次郎は資料を閉じた。
「だから、時間を研究しているんですか」
「そうかもしれない」
美鈴が静かに尋ねた。
「先生。その女性の名前は?」
黒崎は少し迷った。
そして、答えた。
「白石玲奈」
次郎はその名前をノートに書いた。
白石玲奈。
神代玲司が待ち続けた女性。
そして、1994年の写真に写っていた人物。
美鈴が言った。
「その人は、今どうしているんでしょう?」
黒崎は答えなかった。
代わりに、資料の最後のページを開いた。
そこには、研究者の手書きらしい文章が残っていた。
――人は、時間の中を進んでいると思っている。
――しかし、時間の方が人を追い越している可能性はないだろうか。
――追いつけない者は、いつか同じ場所に戻ってくる。
次郎はその文章を読んだ。
「追いつけない者……」
彼はふと、昨日の神代の言葉を思い出した。
「駅の方が、こちらを探しているのかもしれない」
美鈴が言った。
「琴葉さん」
「何?」
「私、少し怖くなってきました」
次郎は彼女を見た。
いつもの勝ち気な表情が、ほんの少しだけ曇っている。
「大丈夫だよ」
「何を根拠に?」
「根拠はない」
「それでは安心できません」
次郎は少し笑った。
「でも、一人で調べるよりは二人の方がいい」
美鈴は何も言わなかった。
ただ、机の上に置かれた資料を一緒に見つめた。
そのとき、次郎のノートに書いた名前の下に、見覚えのない文字があることに気づいた。
白石玲奈。
その下に、いつの間にか一行が書き加えられていた。
――彼女は、まだ二十歳だった。
次郎は顔を上げた。
「先生。これを書いたのは?」
黒崎がノートを覗き込んだ。
「私ではない」
美鈴はペンを手に取った。
インクは乾いていた。
書かれた文字は、次郎の筆跡にそっくりだった。
しかし、次郎には書いた記憶がなかった。
彼はノートを閉じた。
「どうやら、僕たちは少し急いだ方がよさそうだ」
美鈴が尋ねた。
「どこへ?」
次郎は答えた。
「白砂研究所だ」
その頃、神代玲司は自宅の書斎で一冊の古いアルバムを開いていた。
最後のページには、若い頃の自分と白石玲奈が写っている。
神代は写真に指を置いた。
「玲奈……」
そのとき、電話が鳴った。
表示された番号は非通知だった。
神代はしばらく迷い、受話器を取った。
「もしもし」
返事はない。
ただ、かすかな雑音が聞こえる。
そして、女性の声がした。
『玲司さん』
神代の手が止まった。
「……玲奈?」
『もう、探さないで』
「どこにいるんだ!」
『あなたは、まだ五分前にいるの』
電話は切れた。
神代は受話器を握ったまま動かなかった。
壁の時計が、午後五時四十二分を指していた。
秒針だけが、逆方向に動いていた。




