5.神代玲司という男
翌日、午後一時五十分。
東京駅、丸の内中央口。
次郎は柱のそばで腕を組んでいた。
「遅いですね」
隣に立つ美鈴が言った。
「まだ約束の時間前だよ」
「あなたはいつもそうやって余裕を見せますね」
「余裕があるんじゃない。急いでも時間は早くならないからね」
「そういう話をしているんじゃありません」
次郎は笑った。
美鈴は腕時計を確認した。
午後一時五十一分。
「ところで、どうして時計を持ってこなかったんですか?」
「神代先生の指示だから」
「疑問に思わなかったんですか?」
「もちろん思ったよ」
「だったら、なぜ従ったんです?」
次郎は少し考えた。
「相手の奇妙な要求には、とりあえず従ってみることにしている」
「危険な考え方ですね」
「危険かどうかは、やってみないと分からない」
「あなたは本当に学者なんですか?」
「一応ね」
美鈴がため息をついた、そのときだった。
「久しぶりだね、美鈴君」
背後から声がした。
振り向くと、背の高い男性が立っていた。
濃紺のスーツに、銀縁の眼鏡。
年齢は四十代後半だろうか。
落ち着いた表情だが、目には鋭い光があった。
「神代先生」
美鈴が軽く頭を下げた。
「元気そうだね」
「先生もお変わりなく」
神代は次郎に視線を移した。
「君が琴葉次郎君か」
「初めまして。お話は黒崎先生から伺っています」
「私も君のことは聞いている。ずいぶん面白い人物らしいね」
「悪い意味でなければいいのですが」
「どちらとも言えないな」
神代は微笑んだ。
「少し歩こうか」
三人は駅構内の喧騒を離れ、丸の内側の広場へ向かった。
神代は途中、何度か時計を見ようとする癖を見せた。
しかし、腕時計をしていないことに気づくと、わずかに眉を動かした。
次郎はそれを見逃さなかった。
「神代先生も時計を持っていないんですね」
「今日はね」
「普段は?」
「時間を確認する必要があるときは使う」
「では、今日は必要ない?」
神代は次郎を見た。
「時間を確認することが、かえって邪魔になる場合もある」
「なるほど。時間を見ないことで時間を意識するわけですね」
「君は言葉遊びが好きらしい」
「言葉遊びというより、考える練習です」
神代は少し笑った。
「黒崎先生が気に入るわけだ」
三人は広場のベンチに腰を下ろした。
神代は鞄から薄いファイルを取り出した。
「これを見てほしい」
中には、古い写真が数枚入っていた。
次郎は一枚目を見た瞬間、息を止めた。
古い駅のホーム。
木製のベンチ。
片側に一本の線路。
そして、文字盤のない時計。
美鈴が身を乗り出した。
「これ、あの写真と同じ駅です」
「そうだ」
神代は答えた。
「ただし、こちらは三十年以上前に撮影されたものだ」
「どこで撮影したんですか?」
次郎が尋ねた。
「分からない」
「撮影者は?」
「私だ」
次郎は写真を見つめた。
「先生が撮影した?」
「正確には、撮影した記憶がある」
「記録はないんですか?」
「ない。ネガも、撮影場所の記録も残っていない」
神代は二枚目を取り出した。
今度はホームに人影が写っていた。
若い男性が一人。
後ろ姿で、顔は分からない。
「この人物は?」
「私だ」
美鈴が神代を見た。
「先生が?」
「ああ」
次郎は写真を裏返した。
裏面には日付が書かれていた。
1994年11月1日。
「三十二年前ですね」
「そうなる」
「この駅に行ったんですか?」
神代はすぐには答えなかった。
「行った、と言えば行った。だが、どうやって行ったのかは覚えていない」
「ずいぶん曖昧ですね」
「記憶というものは、案外いい加減なものだよ」
神代は写真をしまった。
「君は時間について、どう考えている?」
突然の質問だった。
次郎は少し考えた。
「時間は、変化を測るために人間が作った尺度だと思っています」
「つまり、時間そのものは存在しないと?」
「そこまでは言っていません。存在するかどうかを考える前に、私たちが何を時間と呼んでいるのかを整理する必要がある」
「なるほど」
神代はうなずいた。
「では、質問を変えよう。過去は存在すると思うか?」
「記憶の中には」
「未来は?」
「予測の中には」
「現在は?」
次郎は少し笑った。
「それが一番難しいですね」
「なぜ?」
「現在という瞬間を捉えたと思ったときには、もう過去になっているからです」
神代は満足そうにうなずいた。
「君は、ゼノンのパラドックスをどう考えている?」
「数学的な解決と、現実の運動の理解は別だと思っています」
「数学が現実を説明できないと?」
「説明できる範囲と、説明できない範囲があるということです」
神代はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「私は逆だと考えている」
「逆?」
「人間が現実を理解できないのは、現実が複雑だからではない。人間の認識が不完全だからだ」
次郎は興味深そうに聞いていた。
「数学は、世界を理解するための最も優れた道具だ。曖昧な感覚を排除し、矛盾を整理し、見えない構造を明らかにする」
「それは同意します」
「ならば、世界は最終的に数学で記述できると思わないか?」
次郎は首を横に振った。
「数学で記述できる世界と、実際の世界が同じだとは限りません」
神代の目がわずかに細くなった。
「君は、世界の外側があると思っているのか」
「外側というより、人間の認識の枠組みそのものが、世界を限定している可能性です」
美鈴が口を挟んだ。
「二人とも、少し先に進みすぎです。まずは写真の駅について話をしましょう」
次郎は笑った。
「そうだったね」
神代は美鈴を見た。
「君は相変わらず現実的だ」
「先生が話を広げすぎるんです」
「それは琴葉君も同じだろう」
「そうですね」
美鈴は即答した。
次郎は不満そうに彼女を見た。
「そこは否定してくれてもいいんじゃないかな」
「事実ですから」
神代は楽しそうに笑った。
しかし、すぐに表情を戻した。
「さて、本題に入ろう」
彼はファイルから最後の一枚を取り出した。
そこには、駅のホームに立つ二人の人物が写っていた。
一人は若い神代。
もう一人は、女性だった。
顔ははっきり写っていない。
だが、その女性の服装を見た瞬間、美鈴の表情が変わった。
「……この服」
「どうした?」
次郎が尋ねる。
美鈴は写真から目を離さなかった。
「私が持っている服と、同じなんです」
「同じデザインということ?」
「違います。襟の形も、袖口も……」
彼女は写真を手に取った。
「これ、私の服です」
次郎は神代を見た。
「撮影日は?」
神代は写真の裏側を見せた。
そこには、こう書かれていた。
1994年11月1日。
美鈴は言葉を失った。
「私は……その頃、まだ生まれていません」
神代は静かにうなずいた。
「知っている」
「では、どうして?」
「それを確かめるために、君たちを呼んだ」
次郎は写真を見つめた。
若い神代。
そして、まだ生まれていない美鈴。
過去の写真に写っているはずのない人物。
「先生」
次郎が尋ねた。
「この写真を撮ったとき、何が起きたんです?」
神代は遠くを見るような目をした。
「一人の女性を待っていた」
「その女性は?」
「来なかった」
「写真には写っていますが」
「そうだ」
神代は静かに答えた。
「写っているのに、来なかったんだ」
美鈴は写真を置いた。
「意味が分かりません」
「私にも分からない」
神代は立ち上がった。
「だが、一つだけ確かなことがある」
「何です?」
「この駅で、私は一度だけ五分間を失った」
次郎の表情が変わった。
「黒崎先生と同じ現象ですか?」
「おそらく」
「その五分間に、何があったんです?」
神代は答えなかった。
代わりに、美鈴を見た。
「君は覚えていないだろうが、私は君に会ったことがある」
美鈴は静かに言った。
「先生。私が生まれる前に、ですか?」
「ああ」
「それはあり得ません」
「そうだね」
神代は微笑んだ。
「だから、私は数学者を続けている」
彼は鞄を持ち上げた。
「分からないことを、分からないままにしておくのは性に合わない」
次郎は彼を見た。
「先生は、この駅をもう一度探すつもりですか?」
「いや」
神代は首を横に振った。
「駅の方が、こちらを探しているのかもしれない」
そう言い残して、神代は広場を歩き去った。
しばらく二人は黙っていた。
やがて、美鈴が口を開いた。
「琴葉さん」
「何?」
「あなたは、あの写真をどう思います?」
次郎は写真を見つめた。
「少なくとも、簡単な説明では片づけられない」
「科学的に説明できますか?」
「できるかもしれない」
「本当に?」
「できると信じているわけじゃない。ただ、説明できないと決めるのも早い」
美鈴はうなずいた。
そして、少しだけ笑った。
「あなたらしい答えですね」
「褒めてくれている?」
「さあ」
次郎は写真を返した。
二人は駅の構内へ戻っていった。
その途中、美鈴がふと立ち止まった。
「琴葉さん」
「今度は何?」
「私、去年の夢のことを思い出せないんです」
「黒崎先生が言っていたこと?」
「ええ。でも、神代先生は何か知っているようでした」
次郎は少し考えた。
「思い出せないなら、無理に思い出さなくてもいい」
「あなたにしては珍しく優しいですね」
「僕はいつも優しいよ」
「それは初耳です」
美鈴は笑った。
次郎も笑った。
二人の距離は、さっきより少しだけ近くなっていた。
しかし、そのことに気づいたのは美鈴だけだった。
その夜。
神代玲司は自宅の書斎にいた。
机の上には、古い写真が一枚置かれている。
1994年11月1日。
駅のホーム。
若い神代。
そして、女性。
神代は写真を裏返した。
裏面には、見覚えのない文字が書き加えられていた。
――今度こそ、間に合う。
神代はしばらくその文字を見つめていた。
やがて、引き出しから古い懐中時計を取り出した。
針は止まっている。
午前十時四十二分。
神代は小さくつぶやいた。
「まだ五分足りないのか……」




