10.もう一人の自分
「去年の私たちって、どういうこと?」
次郎は美鈴に尋ねた。
「振り返らないで。前を向いて」
「分かっています。でも、気になります」
「あなたはいつもそうね」
「好奇心は人類の進歩を支えてきました」
「今は人類の進歩より、私たちの命を心配して」
次郎は苦笑した。
目の前には、白石玲奈が立っている。
そして、背後には自分たちがいるという。
いや、正確には、去年の自分たちが。
「玲奈さん。後ろにいるのは、僕たちなんですか?」
「そうです」
「どうして、ここにいるんです?」
「あなたたちが、ここに来たからです」
「それでは説明になっていません」
「そうですね」
玲奈は少し笑った。
「でも、あなたなら分かると思います。人は、自分が経験したことを、いつも正しい順番で覚えているわけではありません」
「記憶違いということですか?」
「それだけではありません」
玲奈はホームのベンチを指さした。
「座ってください。五分間ありますから」
次郎と美鈴は並んで腰を下ろした。
玲奈は二人の前に立ったまま話し始めた。
「あなたたちは、去年ここへ来ました。そして、私と会いました」
「それを覚えていないのは?」
「覚えていないのではありません。思い出せないようになっているのです」
「誰がそんなことを?」
「あなたたち自身です」
次郎は首をかしげた。
「自分で自分の記憶を消したということですか?」
「そう考えてもいいでしょう」
美鈴が口を開いた。
「私は何をしたの?」
「あなたは、次郎さんを帰すことを選びました」
「次郎さんを?」
「はい。そして、自分も一緒に帰りました」
玲奈は次郎を見た。
「でも、次郎さんは帰る直前に、一つだけ約束しました」
「どんな約束です?」
「いつか、もう一度ここへ来ると」
次郎は困った顔をした。
「僕らしいと言えば僕らしいですね」
「あなたらしいわね」
美鈴も小さく笑った。
そのとき、ホームの向こうから二人の人影が歩いてきた。
一人は次郎。
もう一人は美鈴だった。
二人とも、今の次郎たちより少し若く見える。
去年の二人だ。
「本当に僕たちだ……」
次郎は思わず立ち上がった。
去年の次郎は美鈴の手を握っていた。
そして、今の次郎たちの前を通り過ぎると、ベンチの向こう側に座った。
去年の美鈴が言った。
「ねえ、次郎さん。私たち、また会えるかな」
去年の次郎は答えた。
「会えますよ」
「どうして分かるの?」
「だって、まだ話が終わっていませんから」
現在の美鈴は、その言葉を聞いて目を伏せた。
「思い出した……」
「何を?」
「私、あのときあなたに言ったの。あなたが忘れても、私が覚えているって」
次郎は彼女を見た。
「それで?」
「あなたは、こう答えたわ」
美鈴は涙をこらえながら続けた。
「二人のうち、どちらか一人が覚えていれば、きっとまた出会えるって」
次郎は何も言わなかった。
玲奈が二人を見つめていた。
「あなたたちは、もう一度出会いました。だから、今度は私の番です」
「あなたの番?」
「私も、帰らなければなりません」
玲奈はホームの端を見た。
そこには、神代玲司が立っていた。
彼は若い頃の姿だった。
「玲奈……」
神代が一歩踏み出した。
玲奈は彼を見た。
「玲司さん」
神代の目に涙が浮かんだ。
「ずっと探していた」
「知っています」
「どうして、何も言わずにいなくなったんだ」
「あなたに、先へ進んでほしかったから」
「私はずっと、あなたを待っていた」
「それも知っています」
神代は首を振った。
「もう一度だけ、君と話がしたい」
玲奈は静かに微笑んだ。
「もう話していますよ」
神代は立ち止まった。
次郎はその光景を見ながら、ようやく理解し始めていた。
この駅は、過去へ行く場所でも、未来へ行く場所でもない。
人々が忘れてしまった出来事と、もう一度向き合う場所なのかもしれない。
玲奈が次郎に向き直った。
「あと一分です」
「どうすればいいんです?」
「何もしなくていいのです」
「それでは困ります」
「次郎さん。あなたは、何でも答えを見つけようとする。でも、答えを見つけることと、納得することは違います」
次郎は黙った。
玲奈は美鈴に向かって言った。
「あなたは、彼を一人にしないであげてください」
「分かりました」
「そして、玲司さん」
玲奈は神代を見た。
「もう、私を探さないでください」
神代は長い間、彼女を見つめていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった」
その瞬間、ホームの時計が動き始めた。
10時47分。
白い光が広がった。
*
「次郎さん!」
美鈴の声で、次郎は目を覚ました。
そこは白砂研究所の実験室だった。
椅子に座ったまま、眠っていたらしい。
目の前には神代が立っていた。
「終わりました」
神代が静かに言った。
「何がです?」
「五分間です」
次郎は腕時計を確認した。
午後二時二十二分。
実験を始めたのは二時十七分だった。
確かに五分間が経過していた。
美鈴は次郎の手を握っている。
「覚えている?」
「何を?」
「玲奈さんのこと」
「ええ。覚えています」
次郎は神代を見た。
「神代さん。玲奈さんは、あなたにもう探さないでほしいと言っていました」
「分かっています」
「本当に、もう探さないんですか?」
神代は少しだけ笑った。
「探すのをやめることと、忘れることは違います」
次郎は頷いた。
「それは、そうですね」
そのとき、美鈴が机の上を指さした。
「ねえ、これを見て」
ノートのページに、新しい文字が書かれていた。
実験結果
琴葉次郎――記憶回復。
佑月美鈴――記憶回復。
神代玲司――実験終了。
そして、その下にもう一行。
被験者番号21――未確認。
「21番?」
次郎は顔を上げた。
神代がノートを見て、青ざめた。
「そんなはずはない……」
「何か知っているんですか?」
神代は答えなかった。
その代わり、実験室のドアの方を見つめた。
そこには、あの時計を持たない老人が立っていた。
「そろそろ、帰る時間ですよ」
老人は穏やかに言った。
次郎は立ち上がった。
「あなたは誰なんです?」
老人は笑った。
「私は、ずっとここにいた者ですよ」
そして、次郎にだけ聞こえるような小さな声で付け加えた。
「ただし、あなたが生まれる前からね」
老人の姿は、次の瞬間、消えていた。
机の上には、古い写真が一枚残されていた。
写真には、白砂研究所の前に立つ四人の人物が写っている。
神代玲司。
白石玲奈。
時計を持たない老人。
そして――
琴葉次郎の父親だった。




