11.父が残した写真
次郎は写真を手にしたまま、しばらく動かなかった。
「……父です」
写真の右端に立っている男性。
間違いない。
若い頃の父親だった。
次郎の父、琴葉正一は、次郎が大学生の頃に亡くなっている。生前は、ごく普通の会社員だった。少なくとも次郎は、そう思っていた。
「どうして父が、ここにいるんです?」
神代は写真を受け取ると、裏面を確認した。
「撮影日は1988年11月1日です」
「父は当時、研究者ではありません。普通の会社員でした」
「それは知っています」
「知っている?」
神代は少し言いにくそうに答えた。
「あなたのお父さんは、白砂研究所の実験に協力していたのです」
次郎は椅子に腰を下ろした。
「そんな話、一度も聞いたことがありません」
「ご家族には秘密にしていたのでしょう」
「父は何をしていたんです?」
「研究者ではありません。実験の記録や機材の管理を担当していました」
美鈴が写真をのぞき込んだ。
「でも、どうして次郎さんのお父さんが?」
神代は写真の裏側を指さした。
そこには、父親の名前と一緒に短い文字が記されていた。
記録係・琴葉正一。被験者21。
「父が被験者だった?」
「そういう記録になっています」
「父は実験を受けたんですか?」
「ええ。ただし、あなたのお父さんは、ほかの被験者とは違う結果を残しています」
次郎は顔を上げた。
「どう違うんです?」
「実験中、時計が止まっている五分間に、彼は何も見なかったと報告しています」
「何も?」
「そうです。駅も、女性も、過去の記憶も。彼はただ、暗い部屋にいたと言ったそうです」
次郎は首をかしげた。
「それなら、実験は失敗だったのでは?」
「研究者たちはそう考えました。しかし、実験後に彼が残した言葉が問題になった」
「何と言ったんです?」
神代は手帳を取り出した。
「『私は何も見なかった。しかし、あそこには誰かがいた』」
次郎は写真を見つめた。
「誰か?」
「彼は、その人物の顔も名前も覚えていませんでした。ただ、一つだけ覚えていた」
「何を?」
「その人物が、自分に向かってこう言ったそうです」
神代は手帳を閉じた。
「『あなたの息子が、いつかここに来る』」
実験室が静まり返った。
*
「父は、僕がここに来ることを知っていたんでしょうか」
研究所を出た帰り道、次郎は美鈴に尋ねた。
「分からないわ。でも、少なくとも何かを知っていた可能性はある」
「どうして教えてくれなかったんでしょうね」
「話せなかったのかもしれない」
「それとも、話す必要がなかった?」
「どういう意味?」
「父は、僕がここに来ることを予想していた。でも、僕が来るかどうかは、僕自身が決めることだった。だから何も言わなかった」
美鈴は次郎の横顔を見た。
「あなたのお父さん、どんな人だったの?」
「普通の人ですよ。口数が少なくて、頑固で、冗談もあまり言わない」
「あなたとは正反対ね」
「そうですか?」
「そうよ。あなたは一日に何回、余計なことを言うと思っているの?」
「数えたことがありません」
「数えたくもないわ」
二人は笑った。
しかし、次郎の心には一つの疑問が残っていた。
父はなぜ、あの研究所にいたのか。
そして、なぜ自分がいつかそこへ来ると知っていたのか。
*
その夜、次郎は実家の押し入れを調べた。
父が亡くなってから、ほとんど手をつけていない箱がいくつか残っている。
古いアルバム、書類、手帳。
その中に、一冊の茶色いノートがあった。
表紙には、父の字でこう書かれていた。
時間について。
「父さんが、こんなものを書いていたのか」
ページをめくると、日付のある記録が続いていた。
1988年11月1日。
白砂研究所。
実験は予定どおり終了。
被験者18、白石玲奈。所在確認できず。
被験者17、神代玲司。記憶の一部に欠落。
被験者21、琴葉正一。異常なし。
そして、最後のページ。
そこには、次郎が見たことのない文字が書かれていた。
時間は、過ぎていくものではないのかもしれない。
人間が過ぎていくのだ。
その下には、さらに続きがあった。
もし、次郎がこのノートを読む日が来たなら、伝えておきたいことがある。
次郎は息を止めた。
お前は、私が生まれる前から知っていた。
「……何だ、これは」
次郎はページを戻した。
しかし、何度読み直しても文章は変わらない。
父が生まれる前から、息子の次郎を知っていた?
意味が分からない。
そのとき、ノートの間から小さな封筒が落ちた。
封筒には、次郎の名前が書かれていた。
中には一枚の紙。
父の字だった。
次郎へ。
お前がこの手紙を読む頃、私はもういないだろう。
だから、先に言っておく。
お前が不思議なことを経験しても、慌てる必要はない。
この世界には、まだ説明できないことがある。
だが、説明できないことを、何でも信じてはいけない。
同時に、説明できないからといって、すべてを否定してはいけない。
大切なのは、自分の目で確かめることだ。
最後に一つ。
お前が出会う女性を大切にしなさい。
その人は、お前が忘れたことを覚えているかもしれない。
父より。
次郎は手紙を机に置いた。
そして、しばらく天井を見上げた。
「父さん……」
父は何を知っていたのだろう。
なぜ、こんな手紙を残したのだろう。
次郎はスマートフォンを手に取り、美鈴に電話をかけた。
「もしもし?」
「美鈴さん。父の手紙が見つかりました」
「何が書いてあったの?」
「僕が出会う女性を大切にしろ、と」
電話の向こうで沈黙があった。
「それで?」
「それだけです」
「……お父さん、なかなか鋭い人だったのね」
「そうですね」
「次郎さん」
「はい?」
「明日、もう一度黒崎先生に会いましょう」
「どうして?」
「お父さんの記録に、被験者21と書いてあったでしょう」
「ええ」
「でも、実験室のノートには、被験者21は未確認と書かれていた」
次郎は黙った。
「つまり、誰かが記録を書き換えたか、別の実験が行われた可能性があるの」
「父が受けた実験と、僕たちが見た実験は別だった?」
「そうかもしれない」
美鈴は少し間を置いて言った。
「それと、もう一つ気になることがある」
「何です?」
「あなたのお父さんの手紙」
「はい」
「『お前は、私が生まれる前から知っていた』という文章。あれ、どういう意味だと思う?」
次郎は答えられなかった。
そのとき、机の上の父のノートが、ひとりでに開いた。
風などない。
開いたページには、さっきまでなかった文字が浮かんでいた。
次郎。お前の父親は、私ではない。
次郎は息をのんだ。
電話の向こうで、美鈴が尋ねる。
「どうしたの?」
次郎は、開いたノートを見つめたまま答えた。
「美鈴さん……父の正体を、調べる必要がありそうです」
ノートの最後には、もう一行書かれていた。
時計を持たない老人に会いなさい。彼は、すべてを知っている。




