12.時計を持たない老人
翌朝、次郎は黒崎宗一の研究室を訪ねた。
黒崎は窓際の椅子に座り、古い新聞を読んでいた。
「先生、ちょっと聞きたいことがあります」
「ずいぶん深刻そうな顔だね」
「父のことです」
黒崎は新聞を畳んだ。
「琴葉正一さんか」
「ご存じだったんですか?」
「もちろん。白砂研究所で何度か会ったよ」
「父は何者だったんです?」
黒崎はすぐには答えなかった。
机の引き出しを開け、一枚の古い名簿を取り出した。
「これを見たまえ」
名簿には、白砂研究所の関係者が記されていた。
研究責任者、助手、技術担当、被験者。
その中に、琴葉正一の名前がある。
しかし、次郎が驚いたのは、その肩書きだった。
研究協力者・時間認識実験責任者。
「責任者?」
「そうだ。君のお父さんは、単なる記録係ではなかった」
「父は会社員だったはずです」
「研究所にいたのは、会社を辞めた後だよ。実験のために短期間だけ協力していた」
「なぜ、そんなことを隠していたんでしょう」
「それは本人に聞かなければ分からない」
次郎は苦笑した。
「もう聞けませんよ」
「そうだね」
黒崎は名簿を机に戻した。
「ただし、君のお父さんについて、もう一つ話しておきたいことがある」
「何です?」
「彼は、あの老人を知っていた」
次郎は顔を上げた。
「時計を持たない老人ですか?」
「そうだ」
「先生も会ったことがあるんですね」
「何度もね。ただ、あの人の名前を知っている者はいなかった」
「正体は?」
「分からない」
黒崎は窓の外を見た。
「ただ、君のお父さんは彼をこう呼んでいた」
「何と?」
「時守さん」
*
その日の午後、次郎と美鈴は、以前老人が現れた喫茶店「珈琲アリア」を訪れた。
店主は二人を見ると、少し驚いた顔をした。
「ああ、また来たんですか」
「以前、ここにいた老人を探しているんです」
次郎が尋ねると、店主は首をかしげた。
「老人?」
「時計を持っていない人です。白髪で、背の低い」
「ああ……あの人ね」
「ご存じなんですか?」
「ええ。でも、変な人ですよ」
「どう変なんです?」
「いつも同じ席に座るんです。でも、いつ来たのか、いつ帰ったのか、誰も覚えていない」
美鈴が尋ねた。
「名前は分かりますか?」
「時守さん、と呼んでいた人がいましたね」
次郎と美鈴は顔を見合わせた。
「どこに行けば会えますか?」
「さあ。でも、あの人はよく言っていましたよ」
「何と?」
店主は少し考えてから答えた。
「待っている人のところへ行く、と」
次郎はコーヒーを注文した。
そして、いつもの席を見た。
窓際の奥。
そこに老人が座っていた。
「……いた」
美鈴も気づいた。
二人は老人の前に座った。
「時守さんですね」
老人は静かに笑った。
「その名前で呼ぶ人もいますね」
「あなたは父を知っていますか?」
「琴葉正一さんですね」
「父は何者だったんです?」
「あなたのお父さんですよ」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味でしょう」
次郎は少し苛立った。
「父は、僕が生まれる前から僕を知っていた。父のノートにはそう書いてありました。しかも、父は自分が僕の父親ではないと書いていた」
老人はコーヒーカップを手に取った。
「なるほど。そこまで読んでしまいましたか」
「説明してください」
「説明するのは簡単です。しかし、信じるかどうかはあなた次第です」
「聞かせてください」
老人は窓の外を見た。
「あなたのお父さんは、あなたの未来を知っていたのです」
「未来予知ですか?」
「いいえ。もっと単純なことです」
「単純?」
「あなたは、すでにここにいたのです」
次郎は眉をひそめた。
「1988年に?」
「そうです」
「僕はまだ生まれていません」
「戸籍上はね」
美鈴が口を挟んだ。
「それでは、説明になっていません。次郎さんが1988年に存在していたという証拠は?」
老人は彼女を見た。
「あなたも、そこにいたのですよ」
「私も?」
「去年、白砂研究所で次郎さんと一緒に実験を受けたでしょう」
「それは記憶を取り戻しました」
「では、1988年のことも思い出せるかもしれません」
老人はテーブルの上に一枚の写真を置いた。
白砂研究所の前に立つ四人。
神代玲司。
白石玲奈。
琴葉正一。
そして、時計を持たない老人。
その写真の裏には、日付があった。
1988年11月1日。
「この写真を撮ったのは誰です?」
次郎が尋ねた。
「白石玲奈さんです」
「では、あなたはこのとき何歳だったんです?」
「年齢というものは、なかなか難しいですね」
「また、その答えですか」
老人は笑った。
「私は、あなたのお父さんよりも前から、あなたを知っています」
「どういう意味です?」
「あなたのお父さんは、あなたを息子として育てました。しかし、あなたが生まれる前に、すでにあなたと会っていた」
次郎は黙り込んだ。
美鈴が尋ねた。
「それは、時間が逆向きに流れたということですか?」
「そう考える人もいるでしょう。しかし、私は違うと思っています」
「では、どう考えるんです?」
老人は二人を交互に見た。
「人間は、時間が一方向に流れていると思い込んでいる。生まれて、成長して、老いて、死ぬ。しかし、それは人間が自分の人生を理解するために作った順序かもしれない」
次郎はため息をついた。
「時守さん。申し訳ありませんが、もう少し分かりやすくお願いします」
「そうですね」
老人はテーブルに砂糖の袋を三つ並べた。
「この三つを、過去、現在、未来だとしましょう」
次郎は頷いた。
「普通は、左から右へ進むと考えますね」
「そうです。しかし、袋を並べる順番は自由です。右から並べてもいいし、真ん中から始めてもいい」
「それは、時間の順番とは違うでしょう」
「その通り。だから、ここからが問題なのです」
老人は砂糖の袋を一つ手に取った。
「あなたが過去だと思っている出来事は、本当に過去なのでしょうか。それとも、今のあなたが過去と呼んでいるだけなのでしょうか」
美鈴が静かに言った。
「記憶があるから過去だと判断している。でも、その記憶自体が正しいとは限らない」
「その通りです」
老人は頷いた。
「ただし、勘違いしてはいけません。記憶が曖昧だからといって、何でも起こり得るわけではありません。大切なのは、実際に何が起きたのかを確かめることです」
次郎は少し笑った。
「父と同じことを言いますね」
「そうでしょうね」
「あなたは父と、どんな関係だったんです?」
老人は答えなかった。
その代わり、次郎の目を見つめた。
「あなたのお父さんは、最後まであなたを守ろうとしていました」
「何から?」
「あなた自身からです」
*
店を出た後、美鈴はしばらく黙っていた。
「どう思う?」
次郎が尋ねた。
「時守さんの話?」
「ええ」
「正直、分からない。でも、一つだけ気になることがある」
「何です?」
「お父さんがあなたを守ろうとしていた、という話」
「僕自身から守る?」
「あなたが実験に関わることを、止めようとしていたのかもしれない」
次郎は足を止めた。
「つまり、僕がここへ来ること自体が危険だと?」
「そうかもしれない」
「でも、父は僕に自分で確かめろと言っていました」
「だからこそ、何かを選ばせようとしていたのかも」
次郎は空を見上げた。
夕暮れが近づいていた。
「美鈴さん」
「何?」
「僕たちは、何を調べているんでしょうね」
「時間の謎でしょう?」
「それもあります。でも、本当は父のことを調べているのかもしれない」
「どういうこと?」
「父が何者だったのか。なぜ僕を知っていたのか。そして、なぜ僕がこの事件に巻き込まれたのか」
美鈴は頷いた。
「確かめましょう」
そのとき、次郎のスマートフォンが鳴った。
黒崎からのメールだった。
添付されていたのは、白砂研究所の古い実験記録。
本文には短くこう書かれていた。
琴葉君。君のお父さんについて、もう一つ重要な記録が見つかった。
次郎は添付ファイルを開いた。
そこには、1988年11月1日の実験参加者名簿があった。
被験者17 神代玲司。
被験者18 白石玲奈。
被験者19 不明。
被験者20 不明。
被験者21 琴葉正一。
そして、名簿の一番下に、手書きで追加された名前があった。
被験者22 琴葉次郎。
次郎は画面を見つめた。
「僕の名前だ……」
美鈴が息をのむ。
「でも、あなたは1988年には生まれていない」
次郎は画面を閉じた。
「ええ」
そして、ゆっくり言った。
「どうやら、僕たちはまだ、一番大事なことを知らないようですね」
そのとき、黒崎から二通目のメールが届いた。
琴葉君。1988年11月1日、君のお父さんは、実験の直前に亡くなっている。
次郎の手から、スマートフォンが滑り落ちた。




