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無限の檻  作者: 内藤晴夢
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13/20

13.失われた1日

「待ってください。父が亡くなった?」


 次郎は落としたスマートフォンを拾い、黒崎に電話をかけた。


『そうだ。1988年11月1日、白砂研究所で事故が起きている』


「父は当時、研究所にいたんですね?」


『いた。そして、実験開始直前に亡くなったと記録されている』


「死因は?」


『心臓発作だ。救急車が到着したときには、すでに手遅れだったらしい』


 次郎は言葉を失った。


 父が亡くなったのは、次郎が生まれるよりずっと前。


 それなのに、父はその後、次郎を育てている。


「先生、それはおかしいでしょう」


『私もそう思う』


「記録の間違いでは?」


『その可能性はある。しかし、死亡診断書の写しも残っている』


「父の死亡診断書?」


『そうだ』


 次郎は額に手を当てた。


「では、僕の父は誰だったんです?」


『それを調べている』


 電話が切れた。


 美鈴は次郎の顔を見つめていた。


「落ち着いて。まず事実を整理しましょう」


「父は1988年に亡くなった。でも、僕は父と一緒に暮らしていた」


「そうね」


「父の写真もある。手紙もある。僕の記憶の中にも父はいる」


「だから、1988年の記録が間違っている可能性もあるわ」


「そうですね。まずはそこから調べましょう」


 次郎は少し落ち着きを取り戻した。


「美鈴さん、明日、父の戸籍を調べます」


「そうしましょう」


「それから、母にも聞いてみます」


 美鈴は頷いた。


「一人で抱え込まないでね」


「分かっています」


「本当に?」


「……努力します」


     *


 翌日、次郎は母の家を訪ねた。


 母は七十代後半になっていたが、記憶はしっかりしている。


「お父さんのことで聞きたいことがあるんだけど」


「何?」


「父さんは、1988年11月1日にどこにいた?」


 母は少し考えた。


「さあ。そんな昔のこと、覚えていないわよ」


「父さんが白砂研究所というところにいたことは?」


「白砂研究所?」


 母は首をかしげた。


「聞いたことないわね」


「父さんは、研究所で働いていたの?」


「会社員だったわよ。研究所なんて関係ないでしょう」


 次郎は写真を取り出した。


「この人、父さんだよね」


 母は写真を見た。


 そして、表情が変わった。


「……どこで見つけたの?」


「昔の資料の中にあった」


「これは、お父さんね」


「この場所を知ってる?」


 母は写真を裏返した。


 日付を見た途端、顔色が変わった。


「この日付……」


「何か知っているの?」


 母は写真をテーブルに置いた。


「あなたのお父さんは、その日に一度、家に帰ってきたのよ」


「え?」


「朝だったと思う。何か大事な用事があると言って出ていった」


「その後は?」


「夕方に帰ってきたわ。いつもと変わらなかった」


「それだけ?」


 母は次郎を見た。


「次郎。あなた、お父さんのことで何を調べているの?」


「少し気になることがあって」


「お父さんはね、あなたにだけは普通の人生を送ってほしいと言っていたわ」


「どういう意味?」


「よく分からない。でも、あなたが小さい頃、お父さんは時々、寝顔を見ながらこう言っていた」


 母は少し間を置いた。


「今度こそ、間に合ったな、と」


 次郎は何も言えなかった。


     *


 その夜、次郎と美鈴は黒崎の研究室に集まった。


 机の上には、1988年の実験記録、死亡診断書の写し、そして次郎の父が残した手紙が並んでいる。


「まず、確認しましょう」


 美鈴が資料を整理した。


「1988年11月1日、白砂研究所で実験が行われた。その直前に琴葉正一さんが亡くなったという記録がある」


「しかし、次郎さんのお母さんは、その日の夕方に父親が帰宅したと証言している」


 黒崎が続けた。


「つまり、二つの記録が食い違っている」


 次郎は資料を見た。


「どちらかが間違っているのでしょうか」


「そう考えるのが普通だね」


 黒崎は頷いた。


「だが、問題はもう一つある」


「何です?」


「死亡診断書の時刻だ」


 黒崎は書類を指さした。


 死亡確認時刻。


 1988年11月1日、午前10時47分。


 次郎はその数字を見つめた。


「10時47分……」


 美鈴が言った。


「実験の終了時刻と同じね」


 黒崎は頷いた。


「そうだ。実験開始は10時42分。終了は10時47分。そして、その五分間に何が起きたのか、誰も正確には説明できていない」


 次郎は椅子に深く座り直した。


「つまり、父は五分間の実験中に亡くなった?」


「記録上はそうなる」


「でも、母は夕方に父を見ている」


「そうだ」


 黒崎は机の上に別の資料を置いた。


「そして、これが一番奇妙な記録だ」


 それは、研究所の事故報告書だった。


 事故発生時刻は午前10時47分。


 被害者は琴葉正一。


 しかし、報告書の最後には、こう書かれていた。


 被害者は事故発生後も、研究所内で確認されている。


「亡くなった後も確認されている?」


 次郎は尋ねた。


「そうだ。複数の職員が、正一さんを見たと証言している」


「幽霊ということですか?」


「そこまでは分からない」


 黒崎は首を振った。


「ただ、証言には共通点がある」


「何です?」


「正一さんは、いつも同じことを言っていたそうだ」


 黒崎は記録を読み上げた。


「『今日は11月1日ではない。まだ10月31日だ』」


 次郎は美鈴を見た。


 美鈴も驚いた表情をしていた。


「どういう意味でしょう」


 黒崎は静かに答えた。


「彼にとって、11月1日はまだ始まっていなかったのかもしれない」


     *


 帰り道、次郎と美鈴は駅まで歩いた。


「美鈴さん。今日は11月何日ですか?」


「11月4日よ」


「ですよね」


「どうしたの?」


「父は、1988年11月1日を10月31日だと言っていた。つまり、父にとっては一日がずれていた」


「それが何を意味するの?」


「分かりません。でも、もしかすると……」


 次郎は足を止めた。


「父は、同じ一日を何度も経験していたのではないでしょうか」


 美鈴は考え込んだ。


「同じ日を繰り返す?」


「ええ。10月31日が終わらず、11月1日に進めなかった」


「それなら、1988年の事故も説明できるかもしれない」


「どういうことです?」


「実験によって、正一さんの時間認識だけが、別の状態に固定された可能性がある」


「つまり、父は死んだのではなく、別の時間にいた?」


「仮説よ。まだ証拠はないわ」


 次郎は頷いた。


「そうですね。証拠を探しましょう」


 そのとき、次郎のスマートフォンが震えた。


 知らない番号からの着信だった。


「もしもし?」


『琴葉次郎さんですか』


「そうですが」


『私は、あなたのお父さんを知っています』


「どなたです?」


『白砂研究所で、最後まで記録を取っていた者です』


「名前を教えてください」


 相手は少し沈黙した。


 そして、こう言った。


『あなたのお父さんは、まだ生きています』


 次郎は立ち止まった。


「どこにいるんです?」


『あなたのすぐ近くです』


「どこですか!」


『明日の午前10時42分。あの駅に来てください』


 電話は切れた。


 次郎は美鈴を見た。


「行くの?」


 美鈴が尋ねた。


 次郎は少し考えた。


「行きます」


「危険かもしれないわ」


「分かっています」


「それでも?」


「父に会えるかもしれない」


 美鈴は次郎の手を握った。


「じゃあ、私も行く」


 次郎は頷いた。


 そして、二人は知らなかった。


 その日の夜、神代玲司の自宅に、一通の手紙が届いていたことを。


 差出人は、琴葉正一。


 手紙には、たった一行だけ書かれていた。


 玲司君。次郎を、私のところへ連れてきてはいけない。

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