14.美鈴の仮説
翌朝、神代玲司は次郎に電話をかけた。
「琴葉君。今日、白砂研究所へ行くつもりですか」
「ええ。午前10時42分に、あの駅へ来いと言われました」
「行ってはいけません」
「どうしてです?」
「昨夜、あなたのお父さんから手紙が届きました」
次郎は息をのんだ。
「父から?」
「そうです。手紙には、あなたを連れてきてはいけないと書いてありました」
「父はどこにいるんです?」
「分かりません」
「神代さん。あなたは何か知っているんでしょう」
神代は答えなかった。
「私は、1988年に一度だけ正一さんと話しました」
「どんな話を?」
「彼はこう言いました。『息子には、絶対にこの場所を見せないでくれ』と」
「でも、父は僕がここに来ることを予想していた」
「だからこそ、止めようとしているのです」
次郎は少し考えた。
「神代さん。父が何を恐れているのか、知っていますか?」
「知りません。ただ、一つだけ覚えています」
「何です?」
「正一さんは、私にこう言いました」
神代の声が低くなった。
「『次郎がここに来れば、今度は私がいなくなる』と」
電話が切れた。
次郎はスマートフォンを見つめていた。
美鈴が尋ねた。
「どうするの?」
「行きます」
「やっぱりね」
「父に会えるかもしれないんです」
「でも、神代さんは止めている」
「だからこそ、確かめる必要があります」
美鈴はため息をついた。
「分かったわ。ただし、今日は私の指示に従って」
「えっ?」
「あなたは好奇心で突っ走るから、私がブレーキ役になる」
「それでは、僕の自由がありません」
「命があるだけありがたいと思って」
*
午前九時半。
二人は黒崎の研究室にいた。
美鈴は机いっぱいに資料を広げていた。
「次郎さん。少し整理しましょう」
「お願いします」
「まず、白砂研究所の実験は1988年11月1日に行われた。時計は10時42分から10時47分まで止まった」
「はい」
「神代さんと玲奈さんは、その五分間に異常な体験をした。玲奈さんはその後、行方不明になった」
「はい」
「そして、あなたのお父さんは同じ日に死亡したという記録がある。でも、母親の証言では夕方に帰宅している」
「そうです」
「ここで、私は一つの仮説を考えたの」
美鈴はノートに図を書いた。
美鈴の仮説
10月31日
実験前
10:42〜10:47
五分間の異常
11月1日
実験後
※時間の流れを説明するための仮説図。実際に時間が逆行したことを示すものではない。
「実験によって、参加者の時間の認識に食い違いが生じた。ある人は実験前の出来事を覚え、ある人は実験後の出来事を覚えていた」
「つまり、同じ五分間を経験しても、記憶が違うということですね」
「そう。さらに、実験に参加した人の中には、その後の出来事まで記憶していた人がいた可能性がある」
次郎は腕を組んだ。
「それが未来の記憶ですか?」
「まだ分からないわ。単なる記憶の混乱かもしれない。でも、私は別のことが気になっている」
「何でしょう?」
「あなたのお父さんの記録よ」
美鈴は1988年の実験参加者名簿を取り出した。
「被験者21、琴葉正一。被験者22、琴葉次郎」
「僕は生まれていません」
「そう。だから、ここに疑問がある」
美鈴は二つの名前を指で示した。
「この名簿は、いつ作られたのかしら?」
次郎は顔を上げた。
「1988年とは限らない?」
「そうよ。後から追加された可能性がある。つまり、誰かが未来の情報を知っていて、君の名前を書いたのかもしれない」
「それなら、誰が?」
「それを調べるの」
黒崎が静かに口を開いた。
「一つ、思い当たる人物がいる」
「誰です?」
「白砂研究所の最後の所長だ」
黒崎は古い資料を取り出した。
「名前は、三浦宗一郎。彼は実験の翌年に研究所を閉鎖し、その後、消息を絶っている」
「時守さんでは?」
次郎が尋ねた。
黒崎は首を振った。
「分からない。ただ、三浦所長は実験の後、奇妙な発言を残している」
「何と言ったんです?」
黒崎は資料を読んだ。
「『実験は失敗した。しかし、失敗したことを知っているのは、まだ実験を始めていない者たちだけだ』」
次郎は眉を寄せた。
「また難しいことを……」
「私にも意味は分からない」
美鈴が笑った。
「珍しいですね。黒崎先生にも分からないことがあるんですね」
「私だって人間だからね」
*
午前10時20分。
二人は白砂研究所の跡地に向かった。
神代はすでに到着していた。
「来たのですね」
「父から手紙が届いたそうですね」
「ええ」
「見せてください」
神代は封筒を差し出した。
次郎は手紙を読んだ。
玲司君。次郎を、私のところへ連れてきてはいけない。
その下には、もう一文あった。
あの子が私を父親だと思っている限り、私は父親でいられる。
次郎は手紙を握りしめた。
「どういう意味です?」
神代は首を振った。
「私にも分かりません」
「あなたは父に会ったことがあるんですよね」
「あります」
「父は、どんな人でした?」
神代は少し微笑んだ。
「頑固な人でした。研究者たちが理論に夢中になっていると、いつも現実を見ろと言っていました」
「父らしいですね」
「それから、よくあなたの話をしていました」
「僕の?」
「ええ。息子は好奇心が強くて、何でも疑う。いつか私の研究を理解するだろう、と」
次郎は俯いた。
そのとき、研究所の奥から声が聞こえた。
「次郎!」
二人は振り返った。
そこに立っていたのは、時計を持たない老人だった。
「時守さん!」
老人はゆっくり近づいてきた。
「来てはいけないと言ったでしょう」
「父に会わせてください」
「それはできません」
「なぜです?」
「あなたが会えば、あなたは自分が誰なのかを知ることになる」
「それがいけないんですか?」
「知ってしまえば、今のあなたではいられなくなる」
次郎は老人を見つめた。
「僕は、父の息子です。それ以外の何者でもありません」
老人は悲しそうに笑った。
「そう思っているうちは、まだ大丈夫です」
美鈴が前に出た。
「時守さん。あなたは三浦宗一郎所長ですか?」
老人は驚いたように彼女を見た。
「よく調べましたね」
「答えてください」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「そう呼ばれていた時代もありました」
次郎は息をのんだ。
「では、あなたが研究所の所長だった?」
「そうです」
「なぜ、今まで隠していたんです?」
「隠していたわけではありません。あなたたちが尋ねなかっただけです」
「そんな馬鹿な」
老人は次郎に近づいた。
「琴葉君。あなたのお父さんは、あなたを守るために一つの選択をしました」
「どんな選択です?」
「自分の存在を二つに分けたのです」
「二つ?」
「父親として生きる自分と、研究所に残る自分。その二つを、あなたは同じ人間だと思っている」
次郎は首を振った。
「意味が分かりません」
「分からなくていいのです。まだ、あなたには時間があります」
老人は腕時計のない手首を見た。
「あと二分です」
「何がです?」
「今日の五分間が終わるまでです」
その瞬間、研究所の奥で時計の音がした。
カチ。
カチ。
カチ。
美鈴が次郎の手を握った。
「次郎さん。何か変よ」
研究所の窓の外が、急に暗くなった。
そして、次郎のスマートフォンが鳴った。
着信表示には、信じられない名前が出ていた。
琴葉正一(父)
次郎は震える指で通話ボタンを押した。
「父さん?」
電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。
『次郎。やっと話せるな』
次郎の目に涙が浮かんだ。
「父さん、どこにいるんだよ!」
『近くにいる』
「会いたい。会わせてくれ」
少しの沈黙。
そして父は、静かに言った。
『次郎。よく聞きなさい』
「うん」
『私は、お前の父親ではない』
電話が切れた。
同時に、研究所の時計が止まった。
午前10時42分。
美鈴が次郎を見つめていた。
「次郎さん……」
次郎は答えられなかった。
ただ、手の中のスマートフォンを見つめていた。
画面には、新しいメッセージが表示されていた。
父親を探すな。お前自身が、父親なのだから。




