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無限の檻  作者: 内藤晴夢
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3. 佑月の仮説

「ちょっと待ってください」


美鈴は次郎のスマートフォンを取り上げるように覗き込んだ。


「このメール、送信時刻が十時四十二分になっています」


「そうだね」


「でも、今は十時五十分です」


「そういうことになる」


「どういうことになる、じゃありません。八分前に送られたメールが、今届いたということですか?」


「あるいは、八分後に送られるはずのメールが、先に届いたのかもしれない」


「もっと悪い説明をしないでください」


次郎は笑った。


美鈴は笑わなかった。


彼女はスマートフォンを自分の手元に置き、メールの詳細を確認した。


送信者は黒崎宗一。


受信時刻は午前十時五十分。


送信時刻は午前十時四十二分。


間違いはない。


「黒崎先生に電話します」


美鈴はすぐに発信ボタンを押した。


呼び出し音が二回鳴ったところで、相手が出た。


『美鈴君か』


「先生、今どこにいらっしゃいます?」


『大学の研究室だが』


「今朝、先生が送ったメールについて確認したいんです」


『メール?』


「琴葉さん宛てに、午前十時四十二分に送られたものです」


電話の向こうで沈黙があった。


『……そんなメールは送っていない』


美鈴は次郎を見た。


次郎はコーヒーを飲んでいる。


「先生、冗談ではありませんよ」


『冗談ではない。そもそも私は、今朝から研究室にいる。メールを送るようなことはしていない』


「では、このメールは誰が?」


『見せてくれないか』


美鈴はメールの画面を撮影し、黒崎に送った。


数秒後、電話の向こうで小さな声がした。


『これは……』


「何か分かりましたか?」


『美鈴君。今から二人で大学に来られるかね』


「分かりました」


『それから、ひとつ頼みがある』


「何でしょう?」


『その店の時計を、写真に撮っておいてくれ』


美鈴は壁の時計を見た。


十時五十三分。


「もう正常に戻っています」


『それでも構わない。できれば時計の裏側も撮影してほしい』


「分かりました」


電話が切れた。


美鈴は次郎にスマートフォンを返した。


「大学に行きます」


「いいね」


「いいね、じゃありません。あなたも来るんですよ」


「僕も?」


「黒崎先生からのメールは、あなたに届いたんですから」


次郎はカップを置いた。


「なるほど。僕は重要参考人というわけだ」


「自覚があるなら、少しは真面目にしてください」


「僕はいつでも真面目だよ」


「その発言が一番信用できません」


店主に時計の写真を撮らせてもらい、二人は喫茶店を出た。


外は秋晴れだった。


神田の路地には、いつもと変わらない日曜日の風景が広がっている。


歩道を急ぐ人。


信号待ちの自転車。


コンビニの前で電話をする男性。


世界は何事もなかったかのように動いていた。


次郎は空を見上げた。


「美鈴さん」


「何ですか?」


「さっきの五分間、何が起きたと思う?」


「時計の故障、記憶の錯誤、店主の勘違い。可能性はいくらでもあります」


「メールは?」


「送信時刻の設定ミスか、サーバーの遅延かもしれません」


「駅の写真は?」


「それは別の問題です」


次郎は笑った。


「ずいぶん慎重だね」


「慎重なのではありません。分からないことを分かったふりをしたくないだけです」


「それはいい考えだ」


「あなたに褒められると、なぜか腹が立ちます」


「褒めるのも難しい時代になったね」


美鈴は歩く速度を少し上げた。


次郎はその隣を歩いた。


二人の距離は、半歩ほど離れていた。


大学に到着したのは、午前十一時二十分だった。


黒崎宗一の研究室は、古い建物の三階にある。


廊下には研究室の名前を記したプレートが並び、窓からは大学の中庭が見えた。


次郎はドアをノックした。


「黒崎先生、琴葉です」


「入りなさい」


部屋の中には、黒崎が一人で座っていた。


机の上には書類と古い本が積み上がっている。


そして、壁には三つの時計が掛けられていた。


一つはデジタル時計。


一つは振り子時計。


もう一つは、古びた懐中時計を額に入れたものだった。


「来たか」


黒崎は二人を迎えた。


「先生、先ほどのメールですが」


美鈴が切り出す。


「まず、これを見てほしい」


黒崎は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


そこには、時刻が記されていた。


午前十時四十二分。


そして、その下に奇妙な文章があった。


――喫茶店の時計が止まる。


――二人の男女が駅の写真を見る。


――時計を持たない老人が現れる。


次郎は紙を見つめた。


「これは……予言ですか?」


「いや」


黒崎は首を横に振った。


「今朝、私の机の上に置かれていたものだ」


「誰が置いたんです?」


「分からない」


「先生が書いたんじゃないんですか?」


「私の筆跡ではない」


黒崎は紙を裏返した。


裏側には、もう一行だけ書かれていた。


――琴葉次郎は、まだ駅に行っていない。


次郎は思わず笑った。


「これは僕の行動を監視している誰かがいる、ということですかね」


「その可能性はある」


黒崎は真剣な顔で答えた。


「だが、問題はそこではない」


「では、何です?」


黒崎は机の上の三つの時計を見た。


「この紙が置かれていたのは、今朝の十時四十二分だ」


「それが?」


「私はその時刻、研究室にいなかった」


「どこにいたんです?」


「大学の正門前だ」


黒崎は少し間を置いた。


「そして、十時四十二分に研究室へ戻ってきたとき、紙が置かれていた」


美鈴が尋ねた。


「先生が出ていったとき、部屋には誰もいなかったんですか?」


「いなかった」


「鍵は?」


「閉めていた」


次郎は紙を持ち上げた。


「つまり、鍵の掛かった部屋に、誰かが未来の出来事を書いた紙を置いた」


「そういうことになる」


「それは、なかなか大胆な犯行ですね」


「君は、これを犯罪だと思うのかね?」


「今のところは」


黒崎は苦笑した。


「相変わらずだな」


次郎は紙を机に戻した。


「ところで先生。時計が止まったのは、この研究室でもですか?」


「ああ」


「何分間?」


「五分間だ」


「その五分間、先生は何を?」


黒崎はすぐには答えなかった。


やがて、窓の外を見ながら言った。


「夢を見ていた」


美鈴が目を見開いた。


「起きていたんじゃないんですか?」


「起きていた。椅子に座っていたし、目も開いていた」


「それなのに夢を?」


「そうだ」


黒崎は二人を見た。


「夢の中で、私は駅のホームに立っていた」


次郎は美鈴を見た。


美鈴の表情が変わっていた。


「例の写真の駅ですか?」


「ああ」


「そこに誰かいたんですか?」


黒崎はうなずいた。


「一人の女性がいた」


「どんな女性です?」


「後ろ姿しか見えなかった。だが、声は聞いた」


黒崎はそこで言葉を切った。


次郎が促す。


「何と言ったんです?」


「こう言った」


黒崎は、ゆっくりと口を開いた。


「あなたたちは、まだ同じ時間にいると思っているのですね」


部屋の中が静かになった。


美鈴が腕を組んだ。


「先生。それは夢の内容ですよね」


「そうだ」


「夢なら、脳が記憶や想像を組み合わせて作り出した可能性があります」


「もちろん」


「それを現実の出来事と結びつけるのは危険です」


黒崎は穏やかにうなずいた。


「君の言う通りだ」


次郎は椅子に腰掛けた。


「でも、先生」


「何だね?」


「その夢を見たのは、先生だけですか?」


黒崎は机の引き出しから、もう一枚の紙を取り出した。


そこには三人の名前が書かれていた。


黒崎宗一。


研究助手の田辺。


そして、佑月美鈴。


美鈴が立ち上がった。


「私の名前が、どうしてここに?」


「君は覚えていないだろう」


黒崎は言った。


「だが、去年の十二月、君もこの研究室で同じ夢を見ている」


美鈴は眉をひそめた。


「そんな記憶はありません」


「そうだろうね」


黒崎は静かに続けた。


「君は夢の中で、駅のホームに立っていた。そして、誰かにこう言われた」


「何を?」


「もう一人を連れてきなさい、と」


次郎が口を挟んだ。


「もう一人?」


黒崎は次郎を見た。


「琴葉君。どうやら君のことらしい」


美鈴は次郎を見た。


次郎は、いつものように軽口を返そうとした。


しかし、言葉が出なかった。


机の上の紙には、さらに小さな文字が書かれていた。


――二人が出会うまで、駅の扉は開かない。


その下に、別の筆跡で一文が付け加えられていた。


――ただし、出会ったからといって、必ずしも同じ場所に着くとは限らない。


次郎は紙を見つめた。


「先生」


「何だね?」


「これを書いた人は、僕たちを知っているんでしょうか」


黒崎は答えなかった。


窓の外で、大学のチャイムが鳴った。


午前十一時三十分。


美鈴は時計を確認した。


「少なくとも、今は正常な時間ですね」


次郎は彼女に向かって微笑んだ。


「よかった。僕たちはまだ同じ時間にいるらしい」


「そんなこと、誰にも分かりません」


「じゃあ、確かめてみようか」


「どうやって?」


次郎は机の上の紙を指さした。


「この駅を探すんだ」


黒崎が静かにうなずいた。


「それしかないだろう」


美鈴は二人を見比べた。


「待ってください。駅を探す前に、まずは情報を整理しましょう」


「賛成」


次郎は立ち上がった。


「ただし、一つ条件がある」


「何です?」


「昼ご飯を食べてからにしよう」


美鈴は目を閉じた。


「……あなた、本当に緊張感がありませんね」


「空腹のままでは、正しい判断ができない」


「それは科学的な根拠ですか?」


「経験則だよ」


黒崎が声を上げて笑った。


その笑い声を聞きながら、美鈴は小さく息を吐いた。


どうしてこの男と一緒に行動することになったのだろう。


そう考えながら、彼女は次郎の後を追った。


そして、誰にも気づかれないように、机の上の紙をもう一度見た。


そこには、先ほどまでなかった文字が浮かび上がっていた。


――美鈴は、まだ彼のことを知らない。

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