2.喫茶店の5分間
「ところで、ひとつ聞いてもいいですか」
美鈴は、テーブルの上に置いた写真を指先で押さえながら言った。
「どうぞ。答えられる範囲で」
「あなた、幽霊って信じます?」
次郎はコーヒーカップを口元で止めた。
「ずいぶん唐突だね」
「質問に答えてください」
「幽霊の定義による」
「出た。そういう答え方」
「いや、重要なことだよ。死者の意識が残る現象なのか、脳が作り出す幻覚なのか、それとも観測できない何かが存在するという話なのか。そこを整理しないと議論にならない」
「つまり、信じるの? 信じないの?」
「見たことがないから、判断を保留している」
「便利な立場ですね」
「科学者だって似たようなものだろう?」
美鈴は小さくため息をついた。
「私は理論物理学者です。幽霊の研究はしていません」
「でも、時間が五分間止まったという話には興味がある」
「それは幽霊よりずっと厄介です」
次郎は笑った。
「ようやく話が合ってきた」
そのとき、店の奥から店主の声がした。
「お客さん、ちょっといいですか」
二人が振り向くと、店主が壁の時計を見上げていた。
「時計、また止まってるんですよ」
「また?」
次郎が聞き返した。
「ええ。さっきから動かないんです。電池は先週替えたばかりなのに」
壁の時計は、午前十時四十二分を指していた。
次郎は腕時計を確認した。
十時五十分。
「八分もずれているじゃないですか」
「おかしいなあ。さっきまで合っていたんですけどね」
美鈴がスマートフォンを取り出した。
「私の時計は正常です。十時五十分」
次郎も自分のスマートフォンを確認する。
同じだった。
「店主さん、いつから止まっているんです?」
「さあ。気がついたのは今です」
「この時計、電波時計ですか?」
「いえ、普通のクオーツです」
次郎は立ち上がり、壁の時計に近づいた。
秒針は、四十二分の位置でぴたりと止まっている。
「電池切れかな」
「それなら、さっきまで動いていた理由がありません」
美鈴が言った。
「そうだね」
次郎は時計を見つめた。
その瞬間だった。
店内の照明が、一度だけ瞬いた。
カチッ。
何かが小さく音を立てた。
「停電?」
店主が厨房から顔を出す。
次郎はスマートフォンを見た。
十時五十分。
美鈴も確認する。
「変化ありません」
ところが、店主は妙な顔をしていた。
「おかしいな……」
「どうしました?」
次郎が尋ねる。
「今、何時です?」
「十時五十分です」
「いや、そんなはずはない。私、さっき時計を見たとき十時四十二分だったんですよ」
「さっきって、どのくらい前です?」
「ほんの少し前です」
店主は首をひねった。
「それに、変なんです。私、さっきコーヒーを淹れたのを覚えているんですが……」
「ええ」
「誰に出したんでしたっけ?」
次郎と美鈴は顔を見合わせた。
テーブルの上には、二人分のコーヒーカップがある。
だが、店主が言ったのは別の客のことらしい。
「ほかにお客さんがいたんですか?」
美鈴が尋ねる。
「ええ。窓際に男性が一人。それから、奥に女性が……」
店主は店内を見回した。
「いないな」
窓際の席も、奥の席も空いている。
「帰ったんでしょう」
次郎が言った。
「そうですね。でも……」
店主は困ったように頭をかいた。
「なんだか、最初から誰もいなかったような気もするんです」
美鈴は黙っていた。
次郎は、壁の時計をもう一度見た。
十時四十二分。
止まったままだ。
「美鈴さん」
「何ですか」
「夢を見たことはある?」
「寝ているときなら」
「そうじゃない。起きているのに、夢の中にいるような感覚」
「ありません」
「本当に?」
「ありません」
即答だった。
次郎は少し残念そうに肩をすくめた。
「では、これから経験するかもしれない」
「縁起でもないことを言わないでください」
そのとき、店の入口のベルが鳴った。
カラン。
入ってきたのは、白髪の老人だった。
黒いコートを着て、片手に古い革の鞄を持っている。
老人は店内を見渡し、次郎と美鈴を見つけると、ゆっくり近づいてきた。
「琴葉君だね」
「はい。どちらさまですか?」
老人は答えず、二人の向かいに腰を下ろした。
「黒崎先生から頼まれてね」
次郎の表情が変わった。
「黒崎先生の知り合いですか?」
「ああ。長い付き合いだ」
老人は鞄から一枚の紙を取り出した。
そこには、駅のホームらしき風景が描かれていた。
次郎は息をのんだ。
先ほど美鈴が見せた写真と、ほとんど同じ場所だった。
「これは……」
「君たちは、この駅を見たことがあるかね?」
美鈴が答えた。
「写真なら見ました」
「そうか」
老人はうなずいた。
「では、ひとつだけ伝えておこう」
「何をです?」
老人は壁の時計を見た。
そして、静かに言った。
「その駅には、まだ行ってはいけない」
次郎は思わず笑った。
「どうしてです?」
「戻れなくなるからだ」
店内が静まり返った。
美鈴が身を乗り出す。
「戻れないというのは、物理的にですか? それとも心理的な意味ですか?」
老人は彼女を見た。
「君は、ずいぶん理屈を大切にする人だね」
「理屈で説明できないことを、そのまま受け入れるわけにはいきません」
「それは正しい」
老人は少し笑った。
「だが、理屈で説明できることが、すべて正しいとも限らない」
次郎はその言葉に反応した。
「面白いですね。黒崎先生も似たようなことを言っていました」
「そうか。あの人らしい」
老人は立ち上がった。
「では、私はこれで」
「待ってください。お名前を」
老人は入口で振り返った。
「時計を持たない老人、とでも呼んでくれればいい」
そう言って、店を出ていった。
次郎はすぐに後を追おうとした。
しかし、美鈴が彼の袖をつかんだ。
「待って」
「どうした?」
「時計」
彼女は壁を指さしていた。
十時四十二分だったはずの時計が、動き始めていた。
秒針が一周する。
そして、長針がゆっくり進んだ。
十時五十分。
スマートフォンの表示と一致した。
店主が驚いた声を上げた。
「直った!」
次郎は入口を見た。
老人の姿は、もうどこにもなかった。
「美鈴さん」
「何ですか」
「今の人、何分くらい店にいました?」
「三分くらいでしょう」
「そうかな」
次郎は壁の時計を見た。
「僕には、五分間くらいに感じた」
美鈴は彼を見つめた。
「時間の感覚なんて、人によって違います」
「そうだね」
次郎は微笑んだ。
「でも、もし時間そのものが違っていたとしたら?」
美鈴は答えなかった。
そのとき、次郎のスマートフォンが震えた。
黒崎宗一からのメールだった。
件名は、たった一言。
『五分間』
本文には、短くこう書かれていた。
――琴葉君。今、君のいる喫茶店で何が起きた?
次郎は画面を見つめた。
そのメールの送信時刻は、
午前十時四十二分。




