19.最後の5分間
研究所に戻ると、黒崎が資料室で待っていた。
机の上には、古い写真と一冊のノートが置かれている。
「これを見てくれ」
黒崎は写真を指さした。
「玲奈さんですね」
次郎が言った。
「そうだ。撮影日は1988年11月1日。だが、問題はそこではない」
「何が問題なんです?」
黒崎は写真の裏を見せた。
そこには、次のように書かれていた。
『最後の五分間は、まだ始まっていない』
美鈴が尋ねた。
「この写真は、いつ撮影されたんですか?」
「分からない。撮影記録では午前10時47分となっている。しかし、写真に写っている時計は10時42分を指している」
次郎は写真をじっと見た。
「つまり、時計が五分遅れている?」
「そう考えることもできる。しかし、この研究所では逆のことも起きていた」
黒崎はノートを開いた。
そこには、正一の最後の記録があった。
『10時42分、実験開始。
10時47分、実験終了。
しかし、私の記憶では、まだ実験は始まっていない』
次郎は首をかしげた。
「どういうことだ?」
時守が答えた。
「実験を終えた人間と、実験を始める前の人間が、同じ記録の中に存在していたのです」
「それって、結局どういうことなんです?」
時守は少し考えてから言った。
「同じ出来事を経験しても、人によって、その出来事をどの順番で覚えているかが違う。白砂研究所では、その違いが極端になったのかもしれません」
美鈴が続けた。
「つまり、私たちは時間が逆戻りしたと考えていたけれど、実際には記憶の順番が食い違っていただけかもしれない」
次郎はうなずいた。
「なるほど。時間旅行というより、記憶の迷子か」
「ずいぶん簡単に言うわね」
「難しく考えると、また失敗するからな」
そのとき、資料室の奥で物音がした。
全員が振り向く。
そこには、時計を持たない老人が立っていた。
いや、時守ではない。
写真に写っていた、若い頃の白石玲奈だった。
「玲奈さん……?」
神代が驚いた声を上げた。
玲奈は静かにうなずいた。
「お久しぶりです、玲司さん」
神代は一歩前に出た。
「本当に、君なのか」
「そう思ってくださって構いません」
「ずっと探していた」
「知っています」
玲奈は微笑んだ。
「でも、もう探さなくていいと言ったでしょう?」
神代は何も言えなかった。
玲奈は次郎たちに向き直った。
「あなたたちにも、会いたかった」
次郎は思わず尋ねた。
「あなたは、1988年からずっとここにいたんですか?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言えます」
「また難しい答えですね」
玲奈は小さく笑った。
「あなたのお父さんと同じことを言うのね」
次郎は父の名前を聞いて、表情を変えた。
「父は、どこにいるんですか?」
玲奈は答えず、実験室の方へ歩き始めた。
「最後の五分間を始めましょう」
実験室には、二つの椅子が置かれていた。
その中央に、古い装置がある。
玲奈は装置の電源には触れず、次郎と美鈴に椅子を示した。
「二人で座ってください」
「また実験ですか?」
美鈴が警戒する。
「いいえ。今回は何も測りません。何も記録しません」
「では、何をするんです?」
「五分間、ここで話をするだけです」
次郎は拍子抜けした。
「それだけ?」
「それだけです」
二人は椅子に座った。
神代と黒崎、時守、玲奈が少し離れて見守る。
玲奈が尋ねた。
「次郎さん。あなたは、お父さんに会いたいですか?」
「もちろんです」
「会えたら、何を聞きますか?」
次郎は考えた。
「なぜ、あんな実験をしたのか。なぜ僕の名前を記録したのか。どうして何も話してくれなかったのか」
「それを全部聞けたら、満足ですか?」
「分かりません」
「では、美鈴さん。あなたは?」
美鈴は少し考えてから答えた。
「私は、自分の記憶を確かめたい。なぜ1988年の記録に私の名前があるのか。なぜ次郎と一緒にいるのか」
玲奈はうなずいた。
「二人とも、答えを求めているのですね」
「それが悪いんですか?」
次郎が尋ねる。
「いいえ。ただ、答えが見つからないときも、人は生きていかなければなりません」
玲奈は二人を見つめた。
「大切なのは、答えが分からないままでも、誰かと一緒に歩いていけるかどうかです」
美鈴は次郎の方を見た。
次郎も彼女を見た。
「何だよ」
「別に」
「何か言いたそうだな」
「あなたは、まだ分かっていないと思って」
「何が?」
美鈴は小さく笑った。
「それは、あとで教えてあげる」
そのとき、実験室の時計が止まった。
10時42分。
次郎は時計を見上げた。
「またか……」
玲奈は静かに言った。
「五分間が始まりました」
しかし、今回は何も起きなかった。
照明も消えない。
装置も動かない。
ただ、時計の針だけが止まっている。
次郎は美鈴に尋ねた。
「今、何か感じるか?」
「いいえ。いつもと同じよ」
「僕もだ」
二人はしばらく話を続けた。
子供の頃のこと。
好きだった本のこと。
研究所での失敗のこと。
そして、これからのこと。
次郎は、自分が父の記憶を持っているかもしれないことを話した。
美鈴は、それでも次郎は次郎だと言った。
「もし私が、あなたの知らない記憶を持っていたとしても、それは私の人生の一部よ」
「そうだな」
「あなたも同じ。お父さんの記憶があったとしても、それであなたの人生が決まるわけじゃない」
次郎はうなずいた。
「ありがとう」
「珍しいわね。素直にお礼を言うなんて」
「たまにはな」
その瞬間、時計の針が動いた。
10時47分。
五分間が終わった。
誰も何も言わなかった。
装置は動いていない。
記録も残っていない。
ただ、次郎の目の前に、一枚の紙が置かれていた。
そこには、父の字でこう書かれていた。
『次郎へ。
お前がここに来ることを、私は知っていた。
しかし、お前が何を選ぶのかは知らなかった。
それでいい。
未来は、誰かに決めてもらうものではない。
お前が自分で選びなさい。
父より』
次郎は紙を両手で持った。
「父さん……」
そのとき、背後から声がした。
「次郎」
振り向くと、そこに琴葉正一が立っていた。
年齢も服装も、次郎が覚えている父そのものだった。
「父さん!」
次郎は駆け寄ろうとした。
しかし、正一は手を上げて止めた。
「もういいんだ」
「何がだよ。聞きたいことがたくさんあるんだ」
「分かっている」
「だったら、少しぐらい話してくれよ」
正一は優しく笑った。
「お前は、もう自分で考えられるようになった」
「そんなこと、まだ分からない」
「それでいい。分からないことがあるから、人は考えるんだ」
次郎の目から涙がこぼれた。
「父さんは、本当に僕の父さんなのか?」
正一は少しだけ黙った。
そして答えた。
「お前を育てた父親は、私だ。それだけは間違いない」
「それ以外は?」
「それ以外のことは、これからのお前が決めればいい」
正一の姿が少しずつ薄くなっていく。
「父さん!」
「美鈴さんを大切にしなさい」
次郎は振り返った。
美鈴は驚いた顔で立っていた。
正一は最後に笑った。
「それではな、次郎」
姿が消えた。
時計は、10時48分を指していた。
神代は目を閉じていた。
玲奈が隣に立つ。
「玲司さん」
「今度こそ、さよならなのか」
「いいえ。さよならではありません」
玲奈は静かに答えた。
「あなたは、もう私を探さなくていい。私は、あなたが覚えている私として、ここにいます」
神代は長い間、彼女を見つめていた。
そして、ようやく笑った。
「そうか」
二人は並んで実験室を出ていった。
次郎は美鈴の隣に立った。
「終わったのかな」
「少なくとも、私たちがするべきことは終わったと思う」
「そうか」
「ねえ、次郎」
「何?」
「さっきの約束、覚えている?」
「一人で行動しないこと?」
「そう」
「覚えているよ」
美鈴は少し笑った。
「じゃあ、これからも守ってね」
次郎は彼女の手を取ろうとして、ためらった。
美鈴はその手を見て、そっと自分から握った。
「遅いわよ」
「何が?」
「アキレスと亀の話。あなた、まだ追いついていないでしょう?」
次郎は笑った。
「いや。もしかしたら、最初から同じ場所にいたのかもしれない」
二人は研究所の外へ出た。
空は明るかった。
時計は、いつものように時を刻んでいた。
だが、次郎のポケットには、まだ一つだけ謎が残っていた。
父から届いた手紙の最後に、見覚えのない一文があったのだ。
『本当の実験は、これから始まる』
次郎はその文字を見つめた。
そして、静かにポケットへしまった。




